2026年9月16日
ウィンブルドン選手権の第1回は1877年7月、ロンドン郊外のクロッケー・クラブが、芝生を均すポニー・ローラーの修理代を集めるために開いた催しだった。出場者22人、決勝の観客は1シリングずつ払った約200人、利益は10ポンド。急ごしらえで決めたコートの寸法と「15・30・40」の数え方がなぜいまも世界のテニスのルールなのか、そして初代王者スペンサー・ゴアがのちにこの競技をどう評したのかを、当時の記録からたどる。

2026年7月、ウィンブルドンのシングルスで優勝した選手が受け取った賞金は360万ポンドだった。149年前の第1回、優勝者の賞金は12ギニーである。そもそもこの大会は、テニスの頂点を決めるために作られたものではない。主催したのはテニスのクラブですらなく、クロッケーのクラブだった。彼らが欲しかったのは、芝生を平らに均すために、ポニーに引かせる大きなローラーの修理代だった。
地代は3年で2倍になり、流行は下り坂だった
話はテニスではなく、クロッケーから始まる。芝生の上で木槌を振り、ボールを小さな鉄の門(フープ)にくぐらせていく競技である。クロッケー・イングランド(イングランドのクロッケー統括団体)によれば、この遊びはアイルランドで生まれ、1850年代にイングランドへ伝わった。1860年にはワージングで最初のクラブができ、1864年にはルールがまとめられている。1860年代のイングランドでは、屋敷の庭の芝生で男女が一緒に遊べる上品な娯楽として、クロッケーは大流行する。
1868年7月23日、その熱が頂点に達したころ、ロンドンの週刊誌『ザ・フィールド』の編集部に6人の紳士が集まった。『ザ・フィールド』は狩猟や釣り、競馬、クリケットなど、田園生活とスポーツを扱う雑誌である。議長を務めたのは編集長のジョン・ヘンリー・ウォルシュ。この日に生まれたのが、オール・イングランド・クロッケー・クラブだった。クロッケー・イングランドは、このクラブを英国のクロッケーで最初の全国的な本拠地と位置づけている。
グラウンド探しには1年かかった。候補に挙がったのは、シデナムのクリスタル・パレス、ナイツブリッジのプリンシズ・クラブ、リージェンツ・パーク、ホランド・パーク。いずれも費用などの理由で見送られ、最後に見つかったのが、ロンドン・アンド・サウス・ウェスタン鉄道の線路とワープル・ロードに挟まれた、4エーカー(約1.6ヘクタール)の牧草地だった。場所はウィンブルドン駅のすぐ西。当時のウィンブルドンは、ロンドンの外れの郊外である。
クラブの委員会は1869年9月24日にこの土地を借りることを決めた。1年目の地代は50ポンド。これが翌年には75ポンド、その翌年には100ポンドに上がる。3年で地代は2倍になった。一方で、静かな遊びであるクロッケーの人気は、やがて下り坂に入っていた。地代は上がり、客を呼ぶはずの競技は色あせていく。クラブの財政は苦しくなった。
この時期、1872年に、クラブに一台の道具が寄贈されている。芝生を平らに押し固めるための大きなローラーで、ポニーに引かせて使う。英語では「ポニー・ローラー」と呼ぶ。クロッケーは、ボールが芝の凹凸で曲がると勝負にならない競技である。このローラーが、5年後にウィンブルドン選手権を生むことになる。
1875年2月、クラブは苦境を打開する手に出た。流行しはじめていた新しい遊び、ローンテニス(芝生のテニス)を取り入れたのである。提案したのは会員のヘンリー・ジョーンズ。もとは開業医で、1869年に医者をやめてゲームとスポーツの書き手に転じた人物だった。「カヴェンディッシュ」の筆名で書いたトランプゲーム、ホイストの解説書は定番になっていて、『ザ・フィールド』にも盛んに寄稿していた。筆名は、彼が通っていたキャヴェンディッシュ・スクエアのホイスト・クラブから取ったものである。
25ポンドをかけてクロッケーの芝コート1面がテニスコートに作り替えられ、1875年2月25日に完成した。すると、すぐに12人ほどの新しい会員が入ってきた。翌1876年にはさらに4面、グラウンドのおよそ3分の1がテニスに明け渡される。そして1877年4月14日、クラブは名前を「オール・イングランド・クロッケー・アンド・ローンテニス・クラブ」に改めた。
クロッケーのクラブの中で、居候のはずのテニスが母屋を乗っ取りはじめていた。
統一ルールはできたが、誰も納得していなかった

ここで、そのローンテニスがどこから来たのかを見ておく。
もともと「テニス」と言えば、王侯貴族が石造りの屋内コートで打ち合う古い球技を指した。ヘンリー8世が熱中したことで知られ、いまはローンテニスと区別するために「リアル・テニス」と呼ばれている。これを屋外の芝生でやれないかという試みは、1850年代末から英国のあちこちで始まっていた。芝刈り機で平らに刈った芝生と、弾むゴムのボールという、二つの新しい技術がそれを可能にした。1872年には、ハリー・ジェムとアウグリオ・ペレラの二人がイングランド中部のレミントン・スパに、世界初とされるローンテニスのクラブを作っている。
この遊びを一気に広めたのが、ウェールズ生まれの退役軍人ウォルター・クロプトン・ウィングフィールド少佐である。第1近衛竜騎兵連隊の士官として第二次アヘン戦争に従軍し、北京の占領にも立ち会った人物だった。
ウィングフィールドは1874年2月23日、特許を出願する。題は「古来の球技テニスを行うための、新しく改良されたコート」。ゲームには「スファイリスティケ(Sphairistikè)」という名前を付けた。ギリシャ語で「球技の」くらいの意味の形容詞で、名詞を伴わない、あまり出来のよくないギリシャ語だったと言われる。長くて覚えにくいこの名前は定着せず、世間は単にローンテニスと呼んだ。
彼の商売のうまさは、コートを「箱」で売ったところにある。ポール、ネット、ラケット、ドイツ製のゴムボール、コートの目印、それに説明書をひとまとめにしたセットで、ロンドンのピムリコにある代理店から5〜10ギニーで売られた。1874年7月からの1年間で1,050セットが、主に貴族階級に売れたとされる。
ただし、そのコートは今のテニスコートとは形が違った。上の図のとおり、ネットのところで細くくびれ、両端へ行くほど広がる砂時計形である。サーブは片側のコートの中ほどに引かれた菱形の枠の中から打った。点の数え方も、屋内球技ラケッツ(壁にボールを打ちつける競技で、スカッシュの原型)と同じで、サーブ権を持つ側だけが得点でき、15点先取で1ゲームになる。
流行は早すぎて、ルールが追いつかなかった。あちこちで勝手な決まりが作られ、コートの大きさも数え方もばらばらになる。そこで、クリケットのほかにラケッツとリアル・テニスも統括していたメリルボーン・クリケット・クラブ(MCC)が、1875年3月3日にクリケットの聖地ローズ・グラウンドに関係者を集め、統一ルールを作ることにした。
1875年5月に出されたMCCの「ローンテニス規則」は、ウィングフィールドの案をほぼ追認するものだった。砂時計形のコートも、15点先取の数え方も残った。ネットの高さは支柱のところで5フィート(約1.5メートル)、中央で4フィート(約1.2メートル)。ウィングフィールド自身もこのルールを受け入れた。
だが、議論はそれで収まらなかった。コートの形、数え方、ネットの高さ、サーブの位置をめぐって、新聞や雑誌で激しい論争が続いた。ロンドンのプリンシズ・クラブは、MCCのルールを無視して長方形のコートで遊び続けていた。そしてウィングフィールドの特許は、1877年3月2日に失効している。
この宙ぶらりんの状態に決着をつけたのが、ウィンブルドンのクロッケー・クラブだった。
3人の委員が5日でまとめたルールが、いまも生きている
1877年6月2日、クラブの委員会が開かれた。幹事のウォルシュの提案で、アマチュアを対象にしたローンテニスの選手権、それも男子シングルスの大会を開くことが決まる。狙いははっきりしていた。壊れてしまったポニー・ローラーの修理代を、この大会で稼ぐのである。1872年に寄贈されたあのローラーは、芝生の手入れに欠かせない道具だった。
とはいえ、クラブには赤字を出す余裕がない。委員会は、クラブの乏しい資金を危険にさらさないことを条件に開催を認めた。そこでジョーンズが動く。会員や知人20人に費用の一部を保証してもらい、足りない分は自分が責任を持つことにした。ジョーンズはロンドン近郊の会場候補も見て回ったが、結局ワープル・ロードのグラウンドより適した場所はないと結論づける。残っていたクロッケーの芝コートも、テニスコートに作り替えられた。
同じ6月2日、ルールを決める小委員会が作られた。メンバーはチャールズ・ギルバート・ヒースコート、ジュリアン・マーシャル、そしてジョーンズの3人。彼らは5日後の6月7日に、新しいルールを委員会に報告する。中身はMCCのルールを土台にしながら、要のところで大胆に変えたものだった。
78フィート×27フィートは、いまのシングルスのコートとまったく同じ大きさである。15・30・40という数え方も、サーブを2回打てる決まりも、そのまま現在のテニスに残っている。ちなみに15・30・40という数え方そのものの由来ははっきりせず、昔から諸説がある。ウィンブルドンの3人が決めたのは、その古い数え方をローンテニスに持ち込むことだった。
MCCの顔をつぶさないよう、このルールは「この選手権に限った暫定のもの」とされた。ヒースコートはのちに、1890年に刊行されたスポーツ叢書『バドミントン・ライブラリー』のテニスの巻でローンテニスの部を執筆し、そのなかでこの決定をこう振り返っている。
Compared, indeed, with the M.C.C. code, the new rules might appear revolutionary; but the public was, in fact, prepared for revolution (MCCの規則に比べれば、新しいルールは革命的に見えたかもしれない。だが世間の側は、実のところ革命を受け入れる準備ができていた)
1877年6月9日、『ザ・フィールド』に「ローンテニス選手権」と題した告知が載った。
The All England Croquet and Lawn Tennis Club, Wimbledon, propose to hold a lawn tennis meeting, open to all amateurs, on Monday, July 9th and following days. Entrance fee, £1 1s. 0d. (ウィンブルドンのオール・イングランド・クロッケー・アンド・ローンテニス・クラブは、7月9日月曜日から数日間、すべてのアマチュアに開かれたローンテニスの大会を開く予定である。参加費1ポンド1シリング)
参加費の1ポンド1シリングは、1ギニーにあたる。「すべてのアマチュアに開かれた」という一文は、いまの感覚で読むと誤解しやすい。当時の「アマチュア」は、お金をもらうかどうかより、身分を指す言葉だった。働かなくても暮らせる上流・中流の紳士がアマチュアで、プロは労働者階級の出身者を意味した。この一文は、門戸を開くというより、来てほしくない人を締め出すための言葉でもあった。
出場者には、ラケットを自分で持参し、かかとのない靴を履くよう指示が出された。練習用のボールは、クラブの庭師から1ダース12シリングで買えた。馬車で来る客はワープル・ロード側の入口を、徒歩の客は線路沿いの小道を使うよう案内されている。
優勝カップは、編集長のウォルシュが『ザ・フィールド』の社主を口説いて出させた、25ギニー相当の銀のカップだった。刻まれた文字は「オール・イングランド・ローンテニス・チャレンジカップ——ザ・フィールド社主寄贈——アマチュアによる競技のために——ウィンブルドン、1877年7月」。のちにウィリアム・レンショーが3連覇して自分のものにし、いまはウィンブルドン・ローンテニス博物館に展示されている。
大会は名門校のクリケット対抗戦のために中断し、ボレーは「スポーツマンらしくない」と言われた
1877年7月7日土曜日の午後3時半、クラブハウスで組み合わせの抽選が行われた。エントリーは22人。最初に名前を引かれたのはH・T・ギルソンで、近代テニスの大会で最初に抽選された選手として記録に名を残している。
用具は、ロンドン南東部ウリッジのジェフリーズ社が納めた支柱とネット、そしてフランネルで覆った手縫いのゴムボールである。ボールを白いフランネルでくるむと、よく弾み、見やすく、扱いやすい。そう『ザ・フィールド』に書いたのは、ヒースコートの兄ジョン・ヒースコートだった。大会では180個のボールが使われた。ラケットはリアル・テニスのものを改良した形で、打つ面が小さく、少しいびつに傾いていた。
この記事の冒頭に掲げた版画は、大会の最中の7月14日付で週刊紙『イラストレイテッド・スポーティング・アンド・ドラマティック・ニューズ』に載ったものである。右手前に、ネットの脇で高い位置に座る審判が描かれている。審判の椅子は、高さ18インチ(約46センチ)の小さなテーブルの上に置かれていた。コートがよく見えるようにするためである。版画の奥に何面もコートが並んでいるとおり、グラウンドには3列×4列で12面のコートが並んでいた。
大会は7月9日月曜日の午後3時半に始まった。その日の組み合わせを載せたプログラムは6ペンス。初日と2日目は晴天に恵まれ、11日の準々決勝はそれまでより多くの観客を集めた。準決勝に残ったのが3人という半端な数になったため、くじを引いて、建築家でケンブリッジ大学のリアル・テニス代表だった28歳のウィリアム・マーシャルが決勝へ直行する。もう一方の準決勝を勝ち上がったのが、27歳のスペンサー・ゴアだった。
ゴアは1850年にウィンブルドンで生まれた。名門パブリック・スクールのハーロウ校でクリケットの主将を務め、ハーロウ校で盛んだったラケッツの名手でもあった。本業は土地の管理や測量を請け負う仕事である。
準決勝が終わった7月12日木曜日、大会はいったん止まる。翌13日と14日に、ローズ・グラウンドでイートン校とハーロウ校のクリケット対抗戦があったからだ。上流階級の社交行事として欠かせない試合で、テニスの大会はそれとぶつからないよう、週明けの16日月曜日まで休みに入った。世界最初のテニス選手権は、名門校同士のクリケットの試合に遠慮して中断したのである。
ところが月曜日は雨だった。決勝は3日延び、7月19日木曜日の午後3時半に組まれた。その日もにわか雨が続いて、開始はさらに1時間遅れる。水を吸って球が弾まず、足元の滑るコートで、決勝は始まった。観客はおよそ200人。一人1シリングを払っていた。コートの片側には板3枚を渡した仮設の観客席があり、座れたのは30人ほどだった。
ゴアの戦い方は、ほかの出場者と違っていた。リアル・テニス出身の選手たちがコートの後ろからボールを打ち返し続けたのに対し、ゴアはネットに詰めて、ボールが弾む前に打ち込んだ。ボレーである。当時のネットは支柱のところで5フィートもあり、相手はサイドラインぎわを抜くパスを打ちにくかった。
試合は6-1、6-2、6-4。3セットにかかった時間は15分、13分、20分で、合計48分だった。1セット目のあとには15分ほど雨が降っている。ヒースコートは、のちに先の『バドミントン・ライブラリー』でゴアをこう評した。
He was gifted with a natural genius for all games, great activity, a long reach, and a strong and flexible wrist. (彼はあらゆる球技に天賦の才を持ち、よく動き、腕が長く、手首が強くしなやかだった)
だが当時、ネットに詰めてボレーを打つことを「フェアでない」と考える人は少なくなかった。大会のあと、『ザ・フィールド』ではボレーの是非をめぐる議論が何週間も続き、ボレーを禁止しようという声まで出ている。
翌7月20日の『モーニング・ポスト』紙は、こう報じた。
A fair number of spectators assembled yesterday, notwithstanding the rain, on the beautifully kept ground of the All England Club, Wimbledon (昨日、雨にもかかわらず、ウィンブルドンのオール・イングランド・クラブの見事に手入れされたグラウンドに、かなりの数の観客が集まった)
「見事に手入れされたグラウンド」を保つための道具が壊れていたから開かれた大会だったことを、記者は知らない。優勝したゴアには12ギニーの賞金と、あの銀のカップが渡された。2位決定戦はその場で続けて行われ、マーシャルがヒースコートを破っている。
大会の利益は10ポンドだった。ポニー・ローラーは、その後も使われ続けた。ヒースコートは、大会を終えた幹事の心境をこう書いている。
the secretary had noted with satisfaction the facility with which his club might recruit an exhausted exchequer with the shillings and half-crowns of a public eager for novelty (幹事は、目新しいものに飢えた人々のシリング硬貨や半クラウン硬貨で、空になったクラブの金庫をいとも簡単に満たせることに、満足を覚えていた)
初代王者は二度とウィンブルドンに戻らず、13年後に「単調な競技」と書いた
大会が終わると、審判長を務めたジョーンズは全試合のスコアカードを集めて数え直した。第1回で行われた601ゲームのうち、サーブを打った側が取ったのは376ゲーム、受けた側は225ゲーム。5対3の割合である。当時のサーブは下手打ちか、せいぜい肩の高さから打つもので、今のような上から叩き込むサーブではない。それでもサーブ側が有利すぎた。
クラブはすぐにルールを直す。1878年、サービスライン(サーブを入れる範囲の奥の線)をネットから26フィートの位置から22フィートの位置へ近づけて、サーブの入る範囲を狭めた。あわせてネットを支柱で4フィート9インチ、中央で3フィートに下げ、ボレーに出てくる相手の脇を抜きやすくした。この改正はMCCとクラブの連名で出され、砂時計形のコートは完全に捨てられる。ヒースコートの言葉を借りれば、この時点で「砂時計形という考えはきっぱり退けられた」。ルールを作る主導権は、クリケットの総本山から郊外のクロッケー・クラブへ移ったのである。
1878年の第2回には34人がエントリーし、決勝には約700人の観客が集まった。この年から「チャレンジ・ラウンド」という仕組みが入る。前年の王者は勝ち上がる必要がなく、挑戦者を決める大会の優勝者を、最後の一戦だけで迎え撃つ。1922年に廃止されるまで続いた方式である。
その挑戦者になったのが、フランク・ハドウという23歳の青年だった。ゴアと同じハーロウ校の出身でラケッツの名手、そしてセイロン(いまのスリランカ)のコーヒー農園で働くプランター(農園経営者)で、休暇で英国に帰ってきていた。兄のダグラスは、1865年のマッターホルン初登頂の下山中に滑落死した一人である。
ハドウは勝ち上がりの試合で1セットも落とさず、チャレンジ・ラウンドでゴアを7-5、6-1、9-7で破った。ネットに詰めてくるゴアの頭上を、高く深いボールで越えていったのである。ヒースコートはこう書いている。
If he did not invent the lob, he was the first to practise it with any great success (ロブを発明したのは彼ではないとしても、それを使って大きな成功を収めた最初の選手だった)
ヒースコートは、ゴアがこのとき手首を捻挫していたことも書き添えている。ハドウはほどなくセイロンへ戻り、二度と大きな大会に出なかった。ウィンブルドンの男子シングルスで、一度もセットを落とさずに王者のまま去った唯一の選手とされる。そしてゴアも、この1878年を最後にウィンブルドンのコートに戻ることはなかった。
1890年、ゴアは先の『バドミントン・ライブラリー』のテニスの巻に、「ローンテニス15年の回想」という章を寄せた。初代王者がそこで下した評価は、意外なものだった。
in my opinion, it is its want of variety that will prevent lawn tennis in its present form from taking rank amongst our great games. (私の考えでは、いまの形のローンテニスが偉大な競技の仲間入りをすることはない。妨げになるのは、変化に乏しいことである)
That anyone who has really played well at cricket, tennis, or even rackets, will ever seriously give his attention to lawn tennis, beyond showing himself to be a promising player, is extremely doubtful; for in all probability the monotony of the game as compared with the others would choke him off before he had time to excel in it. (クリケットやリアル・テニス、あるいはラケッツでさえ本当に上手にこなした者が、見込みのある選手だと示す以上に、ローンテニスに本気で打ち込むかどうかはきわめて疑わしい。ほかの競技に比べてこの遊びは単調で、上達する前に嫌気がさしてしまうだろうからだ)
ゴア自身がそうだった。同じ章で彼は、ローンテニスを1年やったあと、リアル・テニスを「習ってやってもいい」くらいの気持ちでコートに向かった話を書いている。クリケットでもラケッツでも人並み以上だったし、ローンテニスも簡単だったから、1時間もやれば教える側と互角になるだろうと思っていた。
A short five minutes, however, sufficed to disabuse me of my illusion. I found that I could barely hit the ball over the net (だが、思い違いに気づくには5分もかからなかった。ボールをネットの向こうへ返すのがやっとだった)
And yet from that day there was only one tennis for me, and that was the tennis (それでも、その日から私にとってテニスはひとつしかなくなった。本物のテニスである)
ローンテニスの初代王者は、ローンテニスより古い屋内のテニスに惚れ込んでいたのである。
ゴアは1906年4月19日、ケント州ラムズゲートのホテルで56歳で亡くなった。晩年は事業に行き詰まっていたとされる。1878年に生まれた息子のスペンサー・フレデリック・ゴアは画家になり、ロンドンの街と暮らしを描いた「カムデン・タウン・グループ」の一員となった。その作品はいまテートに所蔵されている。
センター・コートが「真ん中」になかった58年間

ヒースコートが書いたとおり、クロッケーの人気は戻らなかった。1882年、クラブの名前から「クロッケー」の文字が消え、「オール・イングランド・ローンテニス・クラブ」になる。活動はほぼテニスだけになっていた。1884年には女子シングルスと男子ダブルスが始まり、最初の女子王者は19歳のモード・ワトソンで、決勝の相手は実の姉のリリアンだった。
そのかたわら、1881年にはワープル・ロードのグラウンドで、3列×4列に並んだコートの真ん中の列の中央2面をつないで、大きなコートが1面作られた。グラウンドの真ん中にあるから、「センター・コート」である。観客席は少しずつ増やされ、1914年には3,500席になった。
1890年代にはテニス人気が落ち込んだ時期もあり、ウィンブルドンの立役者だったジョーンズは、その不遇の時代の1899年に世を去った。死亡記事の多くは、彼がテニスで果たした役割にほとんど触れていない。同じ1899年、クラブは名前に「クロッケー」を戻す。現在まで続く「オール・イングランド・ローンテニス・アンド・クロッケー・クラブ」という名前は、このとき決まった。理由は、懐かしさから、だったという。
第一次世界大戦のあと、ワープル・ロードは手狭になる。フランスのスザンヌ・ランランの人気で観客が押し寄せ、クラブは1920年にもっと広い土地を買った。1922年6月26日、ウィンブルドン北側のチャーチ・ロードに移った新しい会場で大会が始まる。
新しいセンター・コートは、名前はそのまま引き継いだが、敷地の真ん中にはなかった。周りにコートが4面増やされた1980年になって、ようやく位置が名前に追いついた。58年間、センター・コートは真ん中にないセンター・コートだったのである。いまの座席数はおよそ1万5000席ある。
そして、あのポニー・ローラーである。上の写真は2012年、チャーチ・ロードの会場で撮られたもので、後ろに立つ説明板によれば、その経歴はこうだ。1872年にクラブに寄贈され、ワープル・ロードのグラウンドで使われた。1922年、クラブの引っ越しとともにチャーチ・ロードへ運ばれ、2年間はセンター・コートで使われた。このときはもうポニーではなく、グラウンド整備係の一団が引いた。1924年、新しくできたNo.1コートへ移り、そこで60年以上使われた。1986年に引退して博物館の入口の前に置かれ、2006年に博物館が移転したとき、ミレニアム・ビルディングの脇に据えられた。
1877年に修理代を集めるために大会が開かれたローラーは、そのあと100年以上、ウィンブルドンの芝を押し固め続けたことになる。
最初の舞台だったワープル・ロードの跡地は、いまは女子校ウィンブルドン・ハイスクールの運動場になっている。2012年には、1877年の第1回選手権と、1908年のロンドン五輪のテニス競技がここで開かれたことを記念する銘板が据えられた。
2026年、第139回のウィンブルドン選手権は6月29日から7月12日まで開かれた。クラブの発表によれば、賞金総額は6420万ポンド。男女シングルスの優勝者は、それぞれ360万ポンドを受け取った。
149年前、クロッケー・クラブの委員たちが望んでいたのは、ローラーの修理代だった。22人の紳士が1ギニーずつ払い、観客が1シリングずつ払って、残ったのは10ポンド。その大会のために3人が5日でまとめた長方形のコートと15・30・40の数え方は、いまも世界中のテニスコートで使われている。
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