NHSの原点は1942年のベヴァリッジ報告——役所の分厚い報告書を求めて、ロンドンに行列ができた 第1回
イギリスの国民保健サービス(NHS)は1948年に始まった。その設計図とされるのが、戦争のさなかの1942年12月1日に出た政府の報告書、通称ベヴァリッジ報告である。300ページの役所の文書を買い求める人が政府刊行物の販売所に列をつくり、要約版と合わせて1年あまりで60万部を超えた。それまでのイギリスでは、医者にかかれるかどうかは、お金と運しだいだった。

画像: Ministry of Information Photo Division Photographer / Public domain, via Wikimedia Commons
イギリスに暮らす人は、かかりつけ医(GP)の診察も、救急外来も、入院も、窓口でお金を払わずに受けられる。この仕組み、国民保健サービス(NHS)は1948年に始まった。全4回の連載で、その誕生から、医師たちとの争い、「無料」に最初に入ったひび、そして外国から来た人とNHSの関係までをたどる。第1回は、NHSが生まれる前の医療と、その設計図となった一冊の報告書の話。
医者の請求書が怖かった時代
1948年より前のイギリスの医療
1946年4月30日、下院で保健大臣のアナイリン・ベヴァンは、のちにNHSを生む法案の説明を始めた。彼がまず並べたのは、それまでのイギリスの医療の欠陥だった。
1911年にできた国民保険の制度では、保険料を納める労働者は、保険医として登録したかかりつけ医に無料でかかれた。対象はおよそ2100万人。それ以外の人は、医者にかかるたびにお金を払わなければならなかった。自営業者は外れ、保険に入っている労働者の妻や子どもも外れていた。仕事を失って保険が切れれば、どれほど重い病気でも、無料の診察はそこで終わる。
ベヴァンはこう述べている。医者の助言をお金で買う仕組みでは、悪い知らせを聞きたくないという自然な不安に、請求書への不安が重なる。だから人は、医者に行くのをぎりぎりまで先延ばしにする。病気は早く診てもらうべきなのに、仕組みのほうがそれを妨げている——「物事が全部逆さまになっている」。
病院も、寄付で成り立つ病院(篤志病院)と自治体の病院が入り混じっていた。篤志病院は寄付と募金が頼りで、看護師や医学生が募金箱を持って街頭に立つ「募金の日」もあった。ベヴァンは議場で、本来なら仕事をしているはずの看護師や学生が、病院のためのお金を集めて通りを歩いているのを見るたびに、嫌悪で身震いがした、と言っている。
医者の数も、土地によって大きく偏っていた。ベヴァンが挙げた戦前の数字では、イングランド北東部の港町サウス・シールズでは医者1人あたりの住民が4100人、裕福な人の多い温泉町バースでは1590人。寄付は裕福な人の住む地域の病院に集まり、工業地帯や農村には病院が足りなかった。
炭鉱町トレデガーの医療互助会
「あなたがたは道を示してくれた」
ベヴァンは1897年、南ウェールズの炭鉱町トレデガーに、炭鉱夫の息子として生まれた。13歳で学校をやめ、炭鉱で働き始めている。
この町には、労働者が自分たちで運営する医療の互助会があった。始まりは、製鉄と炭鉱の会社が医者を雇い、その費用を労働者の賃金から天引きしたことにさかのぼる。医者を選ぶのも辞めさせるのも会社で、お金を出す労働者には口を出す権利がなかった。19世紀の終わりから、労働者の委員会が運営を自分たちの手に移していく。
1920年代には、互助会は医者5人、外科医1人、薬剤師2人、理学療法士、歯科医、地区看護師を抱えていた。週にさらに4ペンスを払えば、入院の面倒も見てもらえた。町の小さな病院で足りなければ、カーディフやブリストル、ロンドンの大病院へ。互助会の車が患者を家から駅まで運び、駅では一等車の切符が待っていた。眼鏡も入れ歯も義足も、かつらまで用意したという。
不況の1920年代、ベヴァン自身は炭鉱夫たちの運動の先頭に立っていた。のちの著書によれば、失業した炭鉱夫たちは救貧院へ行進し、国から手当の削減を迫られていた救貧委員会の委員を、2日2晩、建物に閉じ込めた。「私も一緒に歩いた。その先頭を」と彼は書いている。
トレデガーでは今も、NHSはこの互助会を手本に作られた、と語られる。歴史家は、それは単純すぎると言う。戦前のイギリスには、救貧制度の医療、1911年の国民保険、篤志病院、自治体の病院と、さまざまな仕組みが積み重なっていた。1948年、互助会が新しい制度のなかでの存続を求めたとき、ベヴァンはこう答えている。あなたがたは私たちに道を示してくれた。そして、その有能さゆえに、自らの役目を終わらせることになったのだ、と。
「継ぎはぎではなく、革命を」
1942年12月1日、5人の巨人
1941年、戦時の連立政府は、ばらばらだった社会保険の制度を見直す委員会を設け、経済学者のウィリアム・ベヴァリッジを委員長に据えた。その報告書『社会保険および関連サービス』が出たのは、1942年12月1日。北アフリカのエル・アラメインで連合軍が勝ってから、まだ数週間しかたっていなかった。
報告書は冒頭で、三つの原則を掲げている。一つ目の結びはこうだ。世界の歴史の革命的な瞬間は、革命のための時であって、継ぎはぎのための時ではない。二つ目では、社会保険が攻撃するのは「欠乏」だが、欠乏は復興の道に立ちはだかる5人の巨人の一人にすぎず、ある意味ではいちばん倒しやすい、と書く。残る4人は、病気、無知、不潔、怠惰である。
病気という巨人への答えとして、報告書は計画全体の前提の一つに、包括的な保健とリハビリのサービスを置いた。すべての治療とあらゆる障害を対象とする医療を、すべての国民に。保険料を払った人だけではなく、すべての国民に、である。
300ページの役所の文書が、異例の売れ方をした。出たその月、ロンドンのある男性は社会調査の聞き取りにこう話している。みんなの関心ぶりは驚くほどだ。政府刊行物の販売所に買いに行ったら行列ができていたし、バスの中で読んでいたら、車掌に「余分な一冊はないかね」と聞かれた——。報告書は要約版と合わせて、1944年2月までに60万部を超えて売れた。
戦争そのものも、人々の考えを変えていた。空襲に備えて、政府は戦時の緊急医療体制を敷き、それまでばらばらだった病院を、初めて全国の仕組みとして動かしていた。国がその気になれば医療を組織できることを、人々は目の当たりにしていた。
335対119
1943年2月、乗り気でない政府

「ベヴァリッジ計画を要求せよ」と呼びかけるポスター。1944年に出たベヴァリッジの演説集に収められたもの。
国民の熱狂とは裏腹に、政府の腰は重かった。チャーチル首相の内閣には報告書を「革命的すぎる」と見る閣僚もいて、公表そのものが数週間遅れていた。戦争に勝つことが先で、戦後の約束に予算を縛られたくない、というのが政府の本音だった。
1943年2月16日から3日間、下院は報告書を審議した。もとになった動議は、報告書を「価値ある手引き」として歓迎する、という穏やかなものだった。政府は計画の一部を受け入れると述べながら、いつ、どこまで実行するのかははっきりさせなかった。最終日、労働党の議員が修正案を出す。政府が表明した方針に不満を述べ、計画を早く実行するよう方針の見直しを求める、という内容だった。
採決の結果は、修正案に反対が335、賛成が119。修正案は退けられたが、労働党の議員を中心に119人が、戦時の挙国一致の政府に異を唱えたことになる。119人の名簿には、炭鉱町トレデガーを含む選挙区から出ていた議員、ベヴァンの名前がある。そして、1911年に国民保険を作った元首相ロイド・ジョージの名前も、その中にあった。
それでも流れは止まらなかった。1944年には連立政府自身が、全国民のための保健サービスの構想を白書にまとめている。のちにベヴァンは議会で、お金が良い医療を受ける妨げになってはならない、というのはすべての党の固い結論だ、と述べた。
炭鉱夫の息子が保健大臣になる
1945年、47歳の任命
1945年5月にヨーロッパの戦争が終わると、7月の総選挙で労働党が大勝し、アトリーが首相になった。アトリーは保健大臣に、47歳のベヴァンを選んだ。当時の保健大臣は住宅も受け持っていた。空襲で焼けた家の建て直しと、新しい保健サービスづくりを、同じ大臣が背負うことになった。
ベヴァンが用意した法案は、連立政府の白書よりも踏み込んでいた。篤志病院も自治体の病院も、すべて国が引き取って、地域ごとの委員会に運営を任せる。かかりつけ医は国と契約し、診療所の権利を売り買いすることは禁じる。そして、すべての人に、診察も入院も無料で行き渡らせる。
1946年4月の法案の説明で、ベヴァンは理由の第一に、お金が良い医療を受ける妨げになってはならない、というすべての党の結論を挙げた。報告書から3年あまり。トレデガーの互助会を知る男が、その原則を国の制度にしようとしていた。
だが、ここから最大の抵抗が始まる。相手は、ほかでもない医師たちだった。次回は、法律が成立してから1948年7月5日の開始の日までの、2年間の争いの話。
参考資料
- ベヴァリッジ報告『社会保険および関連サービス』(三つの原則と「5人の巨人」)原典英国政府刊行物発行所(インターネット・アーカイブの複製)1942archive.org(新しいタブで開きます)
- 庶民院議事録「社会保険および関連サービス」(報告書をめぐる審議と335対119の採決)原典英国議会(Hansard)1943api.parliament.uk(新しいタブで開きます)
- 庶民院議事録「国民保健サービス法案」(第二読会での保健大臣の説明)原典英国議会(Hansard)1946api.parliament.uk(新しいタブで開きます)
- ベヴァリッジ報告はなぜ1942年に飛ぶように売れたのか(当時の社会調査の聞き取りと販売部数)研究ノーサンブリア大学2017northumbria.ac.uk(新しいタブで開きます)
- NHSはウェールズの労働者医療互助会だけを手本にしたのではない研究アベリストウィス大学2018aber.ac.uk(新しいタブで開きます)
記事の主な日付・数字・引用は、上の資料と照らし合わせて確かめています(2026年10月確認)。
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