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    ジャスト・ロンドンは、ロンドンの深層に迫る力量も器量もない中途半端な存在ですが、旅の判断をほんの少し整える一文が紛れていれば、それだけで存在理由になります。

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    ナショナル・ギャラリー

    The National Gallery

    ナショナル・ギャラリー

    常設展 無料
    目安 3時間

    本日:10:00–17:00

    Trafalgar Square, London WC2N 5DN

    地図で見る公式サイト

    金の額縁は窓だ。ターナーの曇天、ヴァン・ゴッホの陽光。絵画に吸い込まれるたび、あなたの時間は遅れてやってくる。

    About

    どんなところか

    ロンドンのトラファルガー広場に位置するThe National Gallery(ナショナル・ギャラリー)は、13世紀から20世紀初頭にかけてのヨーロッパ絵画を網羅的に展示する英国を代表する美術館です。

    入場無料でありながら、世界的に評価の高いコレクションを誇り、ルネサンスから印象派、ポスト印象派まで約2,300点以上の名作が揃います。

    ハイライトには、フェルメールの「ヴァージナルの前に座る若い女性」、モネの「睡蓮の池」、ゴッホの「ひまわり」、レオナルド・ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」、ターナーやレンブラント、ルーベンスの作品も含まれます。

    特にゴッホの「ひまわり」は、日本からの来館者にも絶大な人気を誇っています。

    ギャラリーは複数のセクションに分かれており、時代別・地域別に作品を鑑賞できる構成になっており、芸術的な旅を時系列で体感することが可能です。

    建物自体もネオクラシカル様式で美しく、周囲の歴史的な雰囲気とも調和しています。

    ロンドンを訪れる際には、絶対に見逃せない芸術の殿堂です。

    Must See

    これだけは見て帰りたい

    ナショナル・ギャラリーを短時間で回るなら、まずこの3つ。 展示室の番号は改装で変わることがあるので、当日は館内の案内で確認してください。

    1. 1

      ゴッホ《ひまわり》

      1888年、アルルでゴーガンを迎えるために描かれた連作のひとつ。世界に複数ある《ひまわり》のうちの1点で、1924年にコートールド基金の援助で収蔵されました。黄色だけで画面を構成しながら、花の一本ごとに咲き具合が違うのが分かります。

    2. 2

      ファン・エイク《アルノルフィーニ夫妻像》

      1434年。奥の壁にかかった凸面鏡に、部屋に入ってきた二人の人物が映り込んでいます。鏡の上には「ヤン・ファン・エイクここにありき」というラテン語の署名。絵の中に画家自身が立ち会っている構造で、西洋絵画史でもっとも議論されてきた一枚です。

    3. 3

      セインズベリー・ウィング(初期ルネサンス)

      トラファルガー広場に面した新館。1250年から1500年までのイタリア・フランドル・ドイツ絵画が並びます。金地の宗教画から遠近法の獲得までを、部屋を移動しながら順に追える構成になっています。

    Route

    着いてからの歩き方

    ナショナル・ギャラリーに着いたら、この順に見ていくと迷いません。 展示室の番号や配置は改装で変わることがあるので、当日は館内の案内で確認してください。

    1. 到着

      正面はセインズベリー翼に変わった

      2年の閉鎖工事を経て、2025年5月にセインズベリー翼が新しい正面入口として開きました。トラファルガー広場から段差なしで入れ、天井の高い明るいホールに出ます。以前の中央ポルティコ(階段を上る古典様式の入口)を目印に来ると迷うので、広場に向かって左手の建物を目指してください。

    2. 見どころ

      13世紀から時代順に歩ける

      再開に合わせて全館が掛け替えられ、約1,000点が13世紀から20世紀へと時代順に並びました。セインズベリー翼から入ると最初期の板絵から始まるので、順路をたどるだけで西洋絵画の流れが体感できます。逆走すると時代が巻き戻るため、迷ったら年代表示を確認してください。

    3. コツ

      有名作だけを見るなら1時間で足りる

      全室を丁寧に見ると半日では終わりません。ファン・エイク、ターナー、ゴッホのひまわりといった名前の知れた作品は特定の数室に集まっているので、時間がなければ受付で当日の配置を聞いて、その部屋だけを回るほうが満足度が高くなります。

    4. 見落としやすい

      入場は無料だが特別展だけ有料

      常設のコレクションは誰でも無料で、予約も要りません。館内で行列を見かけたら、それはたいてい有料の特別展の入口です。無料の展示室は別の扉から入れるので、並ぶ前にどちらの列か確かめてください。

    5. コツ

      金曜は21時まで開いている

      金曜だけ21:00まで開きます。夕方の広場は観光客が減り、館内も落ち着くので、絵の前に立ち止まれる時間が長くなります。トラファルガー広場に面しているため、見終わってから夜のウェストエンドへ歩いて移動できるのも金曜の利点です。

    Artworks

    見どころ作品

    岩窟の聖母

    岩窟の聖母

    レオナルド・ダ・ヴィンチ — 1491/2-1499年頃および1506-1508年

    聖母子を描くなら、ふつうは金の背景か、整った建物の中に座らせる。ところがレオナルドは、聖母マリアを**苔むした岩の裂け目**に連れ出してしまいました。しかも足元には湿った砂利、頭上には雨に削られた岩の庇(ひさし)、その奥には霧に沈む水辺。祭壇画としてはあり得ない設定です。 **まず光を追ってみてください。** 光は画面の外、左上から差し込み、四人の肌と衣だけを柔らかく照らして、周りの岩を闇に沈めています。輪郭線がどこにもないことに気づくはずです。レオナルドは色と色の境目を煙のようにぼかす**スフマート**という手法を使い、人物を空気の中に溶け込ませました。マリアの頬から首へ、影がどこで始まるか指させない——それがこの絵の凄みです。 **次に四つの手に注目を。** 中央のマリアは右手で幼い洗礼者ヨハネを抱き寄せ、左手は幼子キリストの頭上に浮かべて、触れずに守っています。その手の下から天使が指を伸ばし、赤い衣をひるがえしてこちらへ視線を送る。手だけを線でつなぐと、四人が一つの三角形に収まっているのが見えてきます。誰も画面から出て行かない、閉じた構図です。 背景の岩は単なる舞台装置ではありません。レオナルドは地質を観察し、水がどう岩を削るかを理解した上で描いています。世界が生まれたばかりの、時間の始まりの場所——そう感じさせる自然描写こそ、科学者でもあった彼にしか描けなかったものでした。 なお、この主題でレオナルドは二点描いており、もう一点はパリのルーヴル美術館にあります。二枚を見比べると、ロンドンの本作のほうが光と闇の対比が強く、より劇的です。

    母性

    母性

    パブロ・ピカソ — 1901年

    **なぜ青一色なのか。** それを知ると、この絵は別のものになります。 1901年2月、ピカソの親友**カルレス・カサヘマス**が、パリのカフェで恋人に向けて発砲し、そのまま自らの頭を撃ち抜いて死にました。ピカソは19歳。この事件が、彼の人生と絵を変えます。以後3年あまり、彼は青と青緑だけで、貧者・盲人・娼婦・母子といった主題を描き続けました。「**青の時代**」です。 **そして、この絵に描かれた母。** モデルは**ジェルメーヌ**——カサヘマスが撃った、まさにその恋人だと考えられています。友を死なせた女性を、ピカソは聖母のような母として描いた。この絵の静けさの底には、そういう複雑さがあります。 **母の腕を見てください。** 不自然なほど長く、細い。この引き伸ばされた手足は、ピカソがスペインのトレドで見た**エル・グレコ**の宗教画から学んだものです。エル・グレコは人体を縦に引き伸ばして描く画家で、その歪みが霊的な緊張を生みます。ピカソはそれを、母子の抱擁に持ち込みました。 **構図を見てください。** 母が子を抱く形は、**ルネサンス以来の聖母子像**そのものです。しかしここに後光はなく、天使もいない。背後に広がるのは、うねる耕地と青い水面という荒涼とした風景です。宗教的な図像を、宗教を抜いて描いている。 **上部の空を見てください。** 筆が速く、絵具が薄く、**塗り残されたまま**になっています。ピカソはここを仕上げていません。完成させないことで、絵に落ち着かない余白が残りました。 **母の顔と子の顔を見比べてください。** 母には疲労が刻まれ、子は無防備に眠っている。抱く側の重さと、抱かれる側の軽さ。ピカソが20歳で、これを描いています。 なお、この絵は長く1903年の作とされてきましたが、1950年代後半のニューヨークでの競売の際、**ピカソ本人が1901年作であると確認**しました。カサヘマスの死の、その年です。

    ヴァージナルの前に立つ若い女性

    ヴァージナルの前に立つ若い女性

    ヨハネス・フェルメール — 1670-1672年頃

    隣に掛かる『座る若い女性』と対になる一枚。**二枚を交互に見比べてください。** 座る女性はタペストリー越しに覗かれる薄暗い部屋にいて、立つこちらの女性は青白い昼の光に満たされた部屋にいる。片方は誘い、片方は静止している。同じ楽器、同じ画家、同じ布から切られたキャンバス、まるで違う空気です。 **壁の絵を見てください。** 女性の背後に大きく掛かっているのは、**カードを一枚掲げるキューピッド**です。これは当時のエンブレム集(寓意画の図案集)に由来する図像で、「愛はただ一人に向けるべし」という**貞節**の意味を持っていました。座る女性の背後が娼家の絵だったことを思い出してください。二枚は、対になった上で正反対のことを言っています。 **次に、額縁の内側の縁を見てください。** キューピッドの絵を囲む黒い額の、内側の細い面。そこに光がひとすじ乗っているのが見えるはずです。フェルメールは、こうした「ふつうなら誰も描かない場所」を描きます。壁に落ちる影が二重になっているのも同じで、窓が二つあることを影だけで教えている。 **そして床を見てください。** 白と黒の大理石が幾何学的に並び、遠近法の線を作っています。壁の下部にはデルフト陶器風の青いタイル。この床とタイルが、人物を確かな三次元の部屋の中に据えていて、フェルメールの絵が「写真のようだ」と言われる理由の大半はこの空間精度にあります。 彼女はやや正面を向いて立ち、こちらを見ていますが、座る女性ほど親密ではありません。距離があり、静かで、少し冷たい。**フェルメールが同じ主題で正反対の温度を出し分けた**ことが、二枚並んで初めて分かります。

    糸杉のある麦畑

    糸杉のある麦畑

    ヴィンセント・ファン・ゴッホ — 1889年

    1889年6月、ゴッホは南仏サン=レミの**精神科病院に入院中**でした。この絵は、その病室の窓から見えた景色をもとに描かれています。療養中の絵なのに、画面は驚くほど力に満ちている——そこがこの作品の不思議です。 **まず、空を見てください。** 雲が渦を巻いています。実際の雲はこうは動きませんが、ゴッホの空では大気が生き物のようにうねっている。同じ時期に描かれた《星月夜》(ニューヨーク近代美術館)の渦巻く夜空と、これは同じ空です。 **次に、麦畑を見てください。** 黄金色の麦が、短い筆の線を無数に重ねて描かれています。線の向きが場所ごとに変わり、風が吹き抜けていく方向が見えるようになっている。南仏には**ミストラル**という強く冷たい風が吹き、ゴッホは屋外制作でこの風に苦しめられました。画架を地面に打ち込んで描いたという記録もあります。**その風が、そのまま筆跡になっている。** **そして、糸杉を見てください。** 画面左に立つ濃緑の樹。ゴッホは弟への手紙にこう書いています——「糸杉はまだ誰も、私が見るようには描いていない。線と均衡が美しく、**エジプトのオベリスクのようだ**」。実際、この樹は空へ突き刺さる黒い柱として描かれ、周りの渦と対照的に一本だけ動きません。地上と空をつなぐ縦の軸です。 **麦の意味も知っておいてください。** ゴッホにとって、麦が育ち刈られる循環は**生と死の比喩**でした。「私たちは、自分が食べるパンになる麦のようなものだ」と手紙に書いています。糸杉はヨーロッパでは墓地の樹です。生の黄金と死の緑が、同じ風の中に並んで立っている。 この構図でゴッホは三点描いています。最初は屋外で(ニューヨーク・メトロポリタン美術館)、次に病室内で描いた本作、そして母と妹のための小型版。**本作は、屋外の記憶を室内で再構成した**「決定版」とされ、三点の中で最も様式が整っています。この一年後、ゴッホは亡くなりました。

    アルノルフィーニ夫妻の肖像

    アルノルフィーニ夫妻の肖像

    ヤン・ファン・エイク — 1434年

    **この絵の主役は、実は奥の壁に掛かった小さな凸面鏡です。** 直径わずか数センチ。そこに部屋の全景が映り込み、さらに——夫妻の背中の向こう、こちらに立っているはずの**二人の人物**が映っています。つまり画家は、絵を見ている私たちの位置に誰かがいる、という空間を作ってしまった。1434年の絵です。写真の発明より400年も前に、これをやっています。 鏡の真上には流麗な筆記体で「**Johannes de eyck fuit hic 1434**(ヤン・ファン・エイクここにありき 1434年)」と書かれています。ふつう画家の署名は隅に小さく入れるもの。それを部屋の壁に落書きのように大書きしたのは、鏡に映る人物の一人が自分だと言いたかったからでしょう。証人としてその場に立ち会った、という宣言です。 **細部は、近づけるだけ近づいて見てください。** シャンデリアの真鍮の反射、床板の木目、犬の毛の一本一本、窓辺のオレンジの皮のざらつき、鏡の枠を囲む十枚の極小の受難図。これが可能になったのは、ファン・エイクが**油絵具**を使いこなしたからです。それまで主流だったテンペラ(卵で溶く絵具)は乾きが速く、こうした微妙なぼかしや透明な重ね塗りができませんでした。油絵具は乾きが遅いぶん、薄い色の層を何度も重ねて、内側から光るような深みを出せる。宝石の輝きも、毛皮の柔らかさも、真鍮の冷たい反射も、同じ絵具で描き分けられているのはそのためです。 描かれているのはブルージュで活動したイタリア商人の一家。寝室に立つ二人は、天蓋付きのベッド、輸入されたオレンジ、上等な毛皮という当時の**贅沢品**に囲まれています。女性のふくらんだ腹は妊娠ではなく、布をたっぷり使ったドレスの流行——布地の量そのものが富の誇示でした。何を描いたかではなく、どれだけ持っているかを描いた絵、とも言えます。 シャンデリアに灯る蝋燭が一本だけ、しかも昼間なのに、という謎は今も決着していません。婚礼の儀式の名残とも、神の臨在の象徴とも言われますが、確かなことは分かっていない。600年近く見られ続けて、まだ読み解かれ切っていないという事実が、この絵の底知れなさです。

    ホイッスルジャケット

    ホイッスルジャケット

    ジョージ・スタッブス — 約1762年

    **背景が、ない。** 風景も、厩舎も、手綱を引く馬丁も、地面すらない。淡い金褐色の虚空に、栗毛のサラブレッドが一頭、ほぼ実物大で後ろ足立ちになっている。それだけの絵です。そして、それだけの絵が、ナショナル・ギャラリー全体でも指折りの衝撃を放っています。 **まず、離れて見てください。** この絵は建物の設計に組み込まれるように配置されていて、いくつもの部屋を貫く**エンフィラード**(部屋の扉が一直線に並ぶ見通し)の突き当たりに掛けられています。遠くの部屋からでも、暗い展示室の奥にこの馬だけが浮かび上がって見える。近づくにつれて馬が実物大に迫ってくる体験そのものが、展示の演出です。 **近づいたら、筋肉を見てください。** 前脚を持ち上げた**ルヴァード**という馬術の姿勢で、腹から後脚にかけて全体重がかかっています。その負荷が、皮膚の下の筋の張り、浮き出た血管、緊張した腱として正確に描かれている。スタッブスは馬の解剖学に取り憑かれた画家で、農家の納屋を借りて馬の死体を吊るし、18か月かけて層ごとに解剖しながら図を起こしました。この馬が生きて見えるのは、皮の下が分かっているからです。 **それから、目を見てください。** 馬は首をひねってこちらを見ています。怯えとも威嚇ともつかない、しかし明らかに「意志」のある目です。当時、動物画は肖像画や歴史画より格下のジャンルとされていました。それをスタッブスは、王侯の肖像画と同じ大きさ、同じ真剣さで描いた。背景を消したことで、馬は誰かの所有物ではなく、一個の存在として立っています。 制作当初は「背景を描き忘れた未完成品ではないか」という噂まで立ちました。今では、依頼主である第2代ロッキンガム侯爵の意図だったと考えられています。1997年、ナショナル・ギャラリーがヘリテージ・ロッタリー基金の支援を受け1,100万ポンドで購入。人でも神話でもない、ただの一頭の馬にこれだけの存在感を持たせた絵は、ほかにありません。

    戦うテメレール号

    戦うテメレール号

    ジョセフ・マロード・ウィリアム・ターナー — 1839年

    イギリス人が「国民的絵画」の投票をすると、たいてい一位になるのがこの絵です。描かれているのは、ただの曳航作業。しかしイギリス人はこの絵の前で、しばしば言葉を失います。 **画面の左を見てください。** 白く発光するような巨大な帆船が、幽霊のように音もなく進んでいます。**テメレール号**——トラファルガー海戦(1805年)でネルソン提督の旗艦を救い、英雄となった戦艦です。マストは高くそびえ、船体は夕日を受けて青白く輝いている。実物はこの時すでにマストも大砲も外され、みすぼらしい木の殻でした。ターナーは事実を曲げて、記憶の中の姿で描いています。 **その手前、小さくて黒いものを見てください。** 石炭を焚く**蒸気タグボート**です。ずんぐりとして、煙突から赤黒い煙を吐き、火の粉を散らしている。優雅さのかけらもないこの小さな鉄の船が、栄光の戦艦をロープで引きずって、解体場へ連れて行くところです。帆の時代が、蒸気の時代に首根っこを掴まれて処分されに行く——その一場面だけで、産業革命という時代の転換が語られてしまう。 **そして右を見てください。** 沈む夕日が、水面を金と緋色に燃え上がらせています。実際のこの航路では、太陽はこの方角には沈みません。ターナーは構図のために、太陽の位置ごと動かしました。老いた船が左、沈む太陽が右、その間を横切る煙——絵の中の全部が「終わり」を指しています。 ターナーはこの絵を生涯手放さず、売却の申し出をすべて断って「私のお気に入り(my darling)」と呼び続けました。死後、遺贈によって国民のものとなり、今もここにあります。イギリスの20ポンド紙幣に描かれていた時期もあり、この国の自画像そのものと言っていい一枚です。

    ひまわり

    ひまわり

    ヴィンセント・ファン・ゴッホ — 1888年

    世界一有名な花の絵かもしれません。しかしこれは「きれいな花を描いた絵」ではなく、**友達を待つ男が描いた絵**です。そこを知ると、見え方が変わります。 1888年、ゴッホは南仏アルルの「黄色い家」で、画家仲間による共同生活を夢みていました。最初に来てくれるのがポール・ゴーギャン。その部屋を飾るために、ゴッホは数日で何枚ものひまわりを描き上げます。弟テオへの手紙にはこう書いています——「マルセイユ人がブイヤベースを食べるような熱意で描いている」。 **まず、花の状態を一輪ずつ見てください。** 全部で15本。固く閉じたつぼみ、爛漫と開ききった花、そして花びらが落ちて種だけになった頭。**一枚の絵の中に、つぼみから枯れるまでの全過程が同居している**のです。ふつう花の絵は最も美しい瞬間を描きます。ゴッホは、しおれた頭を画面の真ん中に堂々と置いた。生きて、盛って、終わる——その全部を花瓶に挿しています。 **次に、絵に近づいて、斜めから見てください。** 種の部分は絵具が厚く盛り上がり、指で押しつけたような凹凸になっています。この**インパスト**(厚塗り)のおかげで、絵の表面に実際の影ができ、種のざらつきが手触りとして立ち上がってくる。写真では絶対に伝わらない部分なので、実物の前ではぜひ横から覗いてみてください。 **そして、黄色の数を数えてみてください。** 背景も、花瓶も、テーブルも、花も、ほとんどすべてが黄色。ふつう、隣り合う色が近すぎると絵は平板になって死にます。ゴッホは黄土、レモン、山吹、褐色がかった黄を微妙に打ち分けることで、黄色だけで奥行きを作り上げました。これは離れ業です。彼にとって黄色は、南仏の光の色であり、**希望と友情の色**でした。 花瓶には「Vincent」とだけ署名されています。姓ではなく名前だけ。自信のあった作品にだけ彼はこう署名しました。 ——なお、この共同生活はゴーギャンとの決裂と、ゴッホが自分の耳を切る事件で、わずか2か月で終わります。この絵は、まだ何もかもがうまくいくと信じていた頃のゴッホが描いたものです。

    63歳の自画像

    63歳の自画像

    レンブラント — 1669年

    レンブラントは生涯に80点以上の自画像を残しました。若く自信に満ちた画家が、成功し、破産し、妻と息子に先立たれ、老いていく——その全過程が記録されています。**これは、その最後の年の一枚です。** 彼はこの絵を描いた年に亡くなりました。 **まず、顔だけを見てください。** 皮膚は張りを失い、目の下はたるみ、鼻は赤らみ、口元はわずかに引き結ばれている。若い頃の自画像で彼が好んだ豪華な衣装も、羽根飾りの帽子も、金の鎖もありません。着ているのは地味な茶色の上着と、ただの白い帽子。**隠すものが何もない**状態です。 **次に、目を見てください。** これほど見られている、と感じる絵はそう多くありません。ここには自己憐憫も、悲壮感もない。「こういう顔になった」と静かに確認しているだけの目です。破産して家を差し押さえられ、内縁の妻ヘンドリッキェも息子ティトゥスも先に亡くした男が、それでも鏡の前に立ち、逃げずに描いている。この絵の強さはそこにあります。 **そして、絵具の厚みに注目してください。** 光の当たる額や鼻先は絵具が分厚く塗り重ねられ、影の部分は薄く、下地が透けるほどです。**明るいところを厚く、暗いところを薄く**——この塗り分けによって、光は本当に飛び出し、影は本当に奥へ引っ込む。近づくと、頬の肌はほとんど絵具の塊で、何を描いているのか分からないほど乱暴です。ところが二、三歩下がると、突然そこに老いた皮膚が現れる。この「近くでは絵具、遠くでは肉」という魔法が、晩年のレンブラントの真骨頂です。 **最後に、手を探してみてください。** 画面の下のほう、暗がりの中で組まれた両手はほとんど溶けています。X線調査によれば、当初この手は筆とパレットを握っていました。彼は途中でそれを塗りつぶしています。画家であることの表明よりも、ただ一人の老人としてそこにいることを選んだ——そう読める変更です。

    ヴィーナスの化粧(ロキービー・ヴィーナス)

    ヴィーナスの化粧(ロキービー・ヴィーナス)

    ディエゴ・ベラスケス — 1647-1651年頃

    **鏡を見てください。そして、その角度がおかしいことに気づいてください。** ヴィーナスは背中をこちらに向けて横たわり、キューピッドが支える鏡で自分を見ています。ところが——彼女の位置から鏡を見たなら、鏡には彼女自身の顔が映るはずで、こちら側からは見えないはずです。実際に映っているのは、**私たちの方をまっすぐ見返してくる、ぼやけた顔**。物理的にあり得ない反射です。 ベラスケスはこれを間違えたのではありません。鏡像を意図的にずらし、ぼかすことで、私たちは「この人はどんな顔なんだろう」と鏡を覗き込み、そして**見返されている**ことに気づく。裸の背中を無防備に眺めていたつもりが、いつのまにか見る側と見られる側が入れ替わっている。この一枚の鏡だけで、鑑賞という行為そのものが問い返されます。 **次に、背中の線を追ってください。** 肩から腰、腰から膝へ、絵の対角線をまたぐ長い曲線が一本通っています。その下でシーツが同じリズムで波打ち、身体の曲線を反復する。ベラスケスは輪郭を線で描かず、光と影の境目だけで肉体を立ち上がらせています。近づくと、背中のハイライトはほんの数回の刷毛の走りでしかありません。 **そして、色に注目を。** 深い赤のカーテン、灰色のシーツ、白い布、そして肌。使われている色は驚くほど少なく、その禁欲的な配色の中で、肌だけが唯一の暖色として発光しています。科学調査により、灰色のシーツは元は濃い紫だったことが分かっています。 なお、17世紀スペインは**異端審問**が厳しく、女性の裸体画は事実上禁じられていました。この絵はベラスケスに現存する唯一の裸体画です。誰のために、どういう了解のもとで描かれたのか——王の側近のための私室用だったと考えられていますが、確証はありません。 **もう一つ。** 1914年、女性参政権運動家メアリー・リチャードソンが、この絵を肉切り包丁で7か所切りつけました。「歴史上もっとも美しい女性の絵を壊す」ことで、投獄された運動指導者への扱いに抗議したのです。修復跡は現在ほとんど見えませんが、この絵が「見られること」をめぐって現実の事件まで引き起こしたという事実は、鏡の仕掛けと不思議に響き合っています。

    ジェーン・グレイの処刑

    ジェーン・グレイの処刑

    ポール・ドラローシュ — 1833年

    ナショナル・ギャラリーで、来館者が最も長く足を止める絵の一つです。理由は単純で、**この絵は「次に起きること」を描いていないから**。私たちは、起きる直前で止められています。 描かれているのは1554年、**在位わずか9日間で退位させられた16歳の女王**、レディ・ジェーン・グレイの斬首の瞬間です。彼女は目隠しをされ、断頭台の位置が分からず、手探りしています。その手を、ロンドン塔の副官が優しく取って導いている。**この「手を取る」仕草が、この絵の中心です。** これから彼女を殺す側の人間が、最後の数秒だけ、彼女に親切にしている。 **画面の白を見てください。** 周囲が黒く沈む中、ジェーンのサテンの上衣だけが眩しく発光しています。この白は無垢の色であると同時に、**血が最もよく映える色**でもある。ドラローシュはそれを分かって着せています。 **足元を見てください。** 断頭台の脇には藁が撒かれています。血を吸わせるためです。斧の刃は光を反射し、断頭台には首を固定する金具が見える。装置としての処刑が、克明に描かれている。 **左を見てください。** 侍女の一人は柱に顔を伏せ、もう一人は崩れ落ちて衣装を握りしめている。誰も彼女を見ていません。見ているのは私たちだけです。 歴史的には不正確な絵でもあります。実際の処刑は屋外で行われましたし、彼女は白ではなく黒い服でした。ドラローシュは舞台をロンドン塔内部のノルマン様式の空間に移し、フランス革命の断頭台を思わせる木の台を組み、すべてを劇場として構成しています。**事実の再現ではなく、感情の再現**を選んだ絵です。 この絵は1928年のテムズ川洪水で水没し、長らく失われたと信じられていました。1973年、収蔵庫で無事な状態で「再発見」され、ナショナル・ギャラリーに戻っています。

    ヴァージナルの前に座る若い女性

    ヴァージナルの前に座る若い女性

    ヨハネス・フェルメール — 1670-1672年頃

    フェルメールの絵は世界に**35点前後**しか現存しません。ナショナル・ギャラリーはそのうち2点を持っていて、これはその一枚。しかも隣り合う姉妹作と並べて掛けられています。この贅沢は、ほかではまず味わえません。 **まず、女性の目を見てください。** 彼女は鍵盤に手を置きながら、顔だけこちらへ向けています。演奏を中断して、入ってきた誰かを見た——そういう一瞬です。フェルメールの人物が視線を向けてくる作品は少なく、この直接性がこの絵の魅力になっています。手前のタペストリーが脇へめくられているのも効いていて、**私たちは幕を上げてこの部屋を覗いている**構図になっている。 **次に、後ろの壁の絵を見てください。** そこに描かれているのは、リュートを弾く女と客の場面——当時の観客がすぐに読み取れる**娼家の情景**です。手前の女性は上品な部屋で慎ましく鍵盤に向かっているのに、その背後に別の意味が掛かっている。当時のオランダ絵画で音楽はしばしば恋愛や誘惑の暗号でした。この絵は、それを壁の絵として画中に持ち込んでいます。誘っているのか、慎ましいのか、どちらとも決めさせない——その宙吊りが狙いです。 **そして、光を探してください。** 光源は画面の外、左手の窓。壁の質感、鍵盤の縁、青いドレスの襞に、それぞれ違う柔らかさで光が落ちています。フェルメールは影の中にも色を置く画家で、暗部をただの黒で埋めません。 この絵をめぐっては、近年の科学調査が驚く結論を出しました。**キャンバスが、隣に掛かる『ヴァージナルの前に立つ若い女性』と同じ反物から切り出されている**ことが分かったのです。当時のキャンバスは大きな布の巻き(ボルト)から必要な分を切って使うため、織り目のパターンを照合すると、どの布のどこから取られたかが特定できる。二枚が同じ布だったということは、ほぼ同時期に、対の作品として構想された可能性が高いことを意味します。 さらにX線調査では、**遠近法の消失点にピンの穴**が見つかりました。フェルメールはそこにピンを刺し、糸を張って放射状の線を引き、部屋の奥行きを正確に作図していた。感覚だけで描いていたのではなく、器具を使って空間を組み立てていたことの物証です。 かつては「後世の贋作ではないか」と疑われた時期もありましたが、高価な**ウルトラマリン**(ラピスラズリを砕いた青)など、フェルメール特有の顔料が確認され、真作であることが確定しています。

    ユリウス2世の肖像

    ユリウス2世の肖像

    ラファエロ — 1511年

    **この絵が発明したもの——それは「座っている権力者を、斜めから、正面を向かせずに描く」という肖像画の型です。** 以後400年の肖像画がこの構図を踏襲することになりました。 それまで、教皇や君主の肖像は正面か横顔で、玉座に威厳をもって君臨する姿で描かれるのが決まりでした。ラファエロはユリウス2世を、斜めに向けた椅子に座らせ、視線を落とさせ、**誰とも目を合わせない**姿で描いた。見る者に対峙するのではなく、私たちが偶然その場に居合わせたかのような設定です。 **顔を見てください。** ユリウス2世は「戦士教皇」と呼ばれ、自ら甲冑を着けて軍を率い、教皇領を武力で拡大した人物です。ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の天井を描かせ、サン・ピエトロ大聖堂の建て替えを始めさせた、恐ろしく強引な男でもある。ところがこの絵の彼は、痩せ、俯き、白い髭に覆われて、疲れて見えます。描かれた1511年、彼は軍事的失敗の直後にあり、失意のうちに髭を伸ばしていました。**権力の絶頂にいた男の、弱っている瞬間**が記録されている。 **次に、手を見てください。** 右手はハンカチを握り、左手は椅子の肘掛けを掴んでいます。緩んでいる手と、掴んでいる手。この非対称が、人物の内面に幅を与えています。 **そして椅子の飾りを見てください。** 肘掛けの先端は**金色のどんぐり**です。彼の家系名デッラ・ローヴェレは「樫の木」を意味し、どんぐりは家紋でした。顔が弱さを見せる一方で、椅子は血統の力を静かに主張している。 当時この絵がローマの教会で公開されたとき、あまりに本人そっくりで、人々は「見ると震え上がった」と記録されています。写真のない時代に、絵が人物の存在そのものを運んだ瞬間でした。

    サン=ラザール駅

    サン=ラザール駅

    クロード・モネ — 1877年

    **印象派が「駅」を描いたことが、そもそも事件でした。** 1877年当時、絵の主題は神話・歴史・肖像・田園風景と決まっていて、煤けた鉄道駅は絵にする対象ではありませんでした。モネはそこへ画架を持ち込みます。 伝説によれば、モネは仕立てのいい服を着て駅長室を訪ね、自分は高名な画家だと名乗り、**機関車を止め、石炭を余分に焚かせて蒸気を大量に上げさせた**といいます。真偽は定かでありませんが、実際に彼は駅で描く許可を得ていました。 **この絵で本当に描かれているのは、機関車ではなく蒸気です。** 中央の機関車は、実のところ輪郭がほとんど溶けています。青灰色、藤色、白、わずかな桃色の絵具が渦を巻き、その隙間から**ガラス屋根越しの光**が差し込んでいる。モネが捉えたかったのは、鉄の塊ではなく、その塊が空気に起こした変化のほうです。 **上を見てください。** 巨大なガラスと鉄の三角屋根。19世紀の建築技術が生んだ、この時代最新の構造物です。光はここを通って拡散し、蒸気の中で散乱する。**産業が作った新しい光**を、モネは自然光と同じ真剣さで観察しました。 **下を見てください。** ホームには黒い小さな影が点々と置かれています。降りてくる乗客です。顔も服装も描かれず、ただの記号として散らされている。人間はここでは主役ではなく、光の中の粒子です。 モネはこの駅を**12点連作**として描きました。同じ場所を何度も描き、時間や条件で変わる見え方だけを追う——後年の《積みわら》や《ルーアン大聖堂》、そして《睡蓮》へ続く、モネの生涯の方法がここで始まっています。本作はその中でも特に筆が速く、自由です。

    傘

    傘

    ピエール=オーギュスト・ルノワール — 1881-1886年頃

    **一枚の絵の中で、画家が別人になっている絵です。** そのつもりで左右を見比べてください。 **まず右側。** 帽子の女性たち、子ども、羽根飾り。輪郭はふわふわと溶け、色は暖かく、筆はほどけたように軽い。典型的な印象派のルノワールです。 **次に左側。** 帽子箱を抱えた女性の顔、腕、ドレス。ここは**輪郭がはっきりと引かれ**、色は青灰色に抑えられ、絵具は硬く均されている。まるで別の画家が描き足したようです。 実際、そうでした。ルノワールはこの絵を1881年頃に描き始め、いったん中断します。その間にイタリアを旅してラファエロの古典絵画に衝撃を受け、印象派のぼやけた描き方に疑問を持ちはじめた。**1885年頃に戻ってきて、左半分を描き直した**のです。制作年が「1881-1886年頃」と幅を持つのはそのためで、この一枚には**印象派を捨てる直前と直後のルノワール**が同居しています。 **それから、傘を見てください。** 画面上部を、開いた黒と青の傘がびっしり埋めています。人の頭より傘のほうが多い。この傘の連なりが作る楕円のリズムが、絵に音楽的な律動を与えています。**タイトルが人物ではなく「傘」なのは伊達ではありません。** **そして、左手前の女性を見てください。** 彼女だけが傘を持っていません。抱えているのは帽子箱——お針子か店員、つまり働いている女性です。周りの客たちが傘を差す中、雇われている側だけが濡れている。ルノワールがどこまで意識したかは分かりませんが、この一点で絵に階級のざらつきが入ります。 ルノワールが都市の群衆をこれだけの規模で描いたのは、これが最後です。以後、彼は裸婦と肖像へ向かい、二度とパリの街路には戻りませんでした。

    ゴッホの椅子

    ゴッホの椅子

    フィンセント・ファン・ゴッホ — 1888年

    **椅子が一脚あるだけの絵です。人は誰もいません。** それでもこの絵が肖像画と呼ばれるのは、ゴッホが自分自身をこの椅子として描いたからです。 **まず、椅子そのものを見てください。** 黄色く塗られた粗い木、藁を編んだ座面、肘掛けなし、背もたれはまっすぐ。安物です。脚の長さも微妙に不揃いで、遠近法もどこか歪んでいる。ゴッホは家具を正確に描く技術がなかったのではなく、**素朴で頑丈で飾り気のないもの**として描きたかった。彼が自分をそう見ていたということです。 **座面の上を見てください。** パイプと、刻みタバコを入れた紙包み。それだけです。持ち主が今しがた立ち去ったばかりのような、生活の温度がここに残されています。ゴッホは以前、亡くなった父のパイプを描いたことがありました。**パイプは彼にとって、不在の人を指す物**です。 **左を見てください。** 木箱の中で玉ねぎが芽を出しています。箱には「Vincent」と署名がある。芽吹く球根は生命と再生の徴で、これも自画像の一部です。 **そして、この絵には対になる相棒がいます。** 同じ時期にゴッホが描いた《ゴーギャンの椅子》(アムステルダム・ファン・ゴッホ美術館)です。あちらは肘掛け付きの上等な椅子で、座面には本と蝋燭が置かれ、夜の人工光で描かれている。こちらは昼の自然光、素朴な椅子、パイプとタバコ。**知性と本能、夜と昼、洗練と素朴**——ゴッホは自分とゴーギャンの違いを、家具二脚で描き分けました。 背景の色にも注目してください。床は赤いタイル、壁と扉は青。黄色い椅子は、補色に近い青と赤に挟まれて強烈に浮き上がります。ゴッホは色を「見えたまま」ではなく**感情の記号**として選ぶ画家でした。輪郭を濃い線で囲むのは、日本の浮世絵から学んだ手法です。 そして最も重要なこと。**この椅子は、空です。** ゴッホはかつて弟テオへの手紙で、空の椅子が死や不在を意味するイギリスの版画について語っていました。この絵が描かれた数週間後、ゴーギャンはアルルを去り、ゴッホは自らの耳を切ります。二脚の椅子は、二度と向かい合うことがありませんでした。

    スペイン王フェリペ4世

    スペイン王フェリペ4世

    ディエゴ・ベラスケス — 1656年頃

    **隣に掛かる若い頃のフェリペ4世像と、必ず見比べてください。** 同じ王、同じ画家、25年の隔たり。この二枚を並べて見られること自体が、ナショナル・ギャラリーの価値です。 **まず顔を見てください。** 頬はたるみ、目は腫れぼったく、視線には力がありません。統治は1621年から続き、この時点で35年目。**三十年戦争でスペインは疲弊し、帝国は坂を下り、王は次々に家族を失っていました。** ベラスケスはその全部を顔に描いています。 **ここが異常な点です。** 当時、王侯の肖像画は理想化するのが常識でした。若く、強く、美しく描く。それが画家の仕事です。ところがベラスケスは、**老けて疲れた王を、老けて疲れたまま描いた**。しかも王はそれを受け入れ、この絵を公式肖像として認め、複製を作らせて各地へ贈っています。画家と王の間に、それを許す信頼があったということです。 **では、威厳はどこにあるのか。** 顔ではありません。姿勢と、装いと、記号にあります。背景も服も真っ黒。その闇の中で、蒼白い顔と、糊の効いた白い襟(**ゴリージャ**)だけが浮かび上がる。胸元には**金羊毛騎士団**の徽章。整えられた髪。**弱った人間の上に、王という制度だけが硬く残っている**——そう見える構成です。 **近づいて、筆致を見てください。** 目の光、襟の縁、胸の金具。どれもごく軽い一筆で置かれていて、細密には描かれていません。ベラスケスの晩年の筆は、描き込むほど本物らしくなるという常識の逆を行きます。**必要な数筆だけで存在を立ち上げる**——後にマネが「画家の中の画家」と呼んだのは、この境地に対してでした。 これはフェリペ4世の**最後の公式肖像**です。以後、王は新しい肖像を描かせませんでした。2年後の1658年、ベラスケスは王の推挙でサンティアゴ騎士団に叙任されます。画家が貴族に列せられるのは異例のことでした。

    睡蓮

    睡蓮

    クロード・モネ — 1916年以降

    **この絵には、地平線がありません。空も、岸も、木も、上下の手がかりが一切ない。** あるのは水面だけです。睡蓮の葉が縁のほうに浮かび、中央には空か雲か柳の反射が広がっている——それが水なのか空なのかも、判然としません。**立つ場所を奪われる**、という体験のために描かれた絵です。 **遠近法が消えていることに注目してください。** ふつう風景画には、手前・中景・遠景があり、消失点があります。モネはそれを全部捨てました。私たちは岸に立って池を眺めているのではなく、**水面の真上に浮かんでいる**。この視点の消去こそが、20世紀の抽象絵画への扉になりました。 **色を追ってください。** 緑、黄土、紫、レモン、空色、桃色。どの色も輪郭を持たず、隣の色へ滲んでいます。近づくと、絵具は驚くほど乱暴に置かれていて、ほとんど何も描かれていない。二、三歩下がると、それが水になる。 この絵が描かれた頃、モネの人生は失うばかりでした。**妻アリスを1911年、長男ジャンを1914年に亡くし、自身は白内障で色が正しく見えなくなっていた**。さらに1914年、第一次世界大戦が始まります。彼は制作をやめかけていました。 それでもモネは筆を取り、庭に**巨大なキャンバス専用のアトリエ**を建てます。高さ2メートルを超える睡蓮を描き続け、親友であり首相でもあったクレマンソーに支えられて、この連作を国家に寄贈することを決意しました。**終戦の翌日、1918年11月12日**、彼は正式にそれを申し出ます。連作は「平和の記念碑」として捧げられ、後にパリのオランジュリー美術館の楕円形の部屋に設置されました。 本作はその大装飾計画に連なる一枚です。白内障の目で、戦争のさなかに、80歳近い画家が、水面だけを見つめ続けた。1963年にこの絵がナショナル・ギャラリーで展示されたとき、ある批評家はこう書きました——「**唯一正しい反応は、この色の海に飛び込んで溺れることだ**」。

    雨、蒸気、速度 ― グレート・ウェスタン鉄道

    雨、蒸気、速度 ― グレート・ウェスタン鉄道

    ジョセフ・マロード・ウィリアム・ターナー — 1844年

    **1844年に「速度」を絵にした人がいた**、という事実がまず驚きです。自動車も飛行機もない時代、人類が初めて体験した「自分の足より速く動く」感覚を、ターナーはキャンバスに定着させようとしました。 **画面を横切る黒い線を追ってください。** 蒸気機関車が、メイデンヘッドのテムズ川鉄道橋を、こちらへ向かって疾走してきます。この橋はブルネルが設計した当時最先端の構造物で、その低く平たいアーチは「崩れる」と批判されながら今も現役です。機関車の先端だけが黒く鋭く、あとは雨と蒸気に溶けている。**輪郭がないからこそ、速い。** **次に、絵の下のほう、線路の前方を目を凝らして探してください。** 小さな**ウサギ**が走っています。ほとんどの人が気づかずに通り過ぎる細部ですが、これは決定的な仕掛けです。機械に追いかけられ、逃げる生き物。自然が機械に負ける瞬間が、豆粒ほどの大きさで置かれている。 **左を見てください。** 霞んだ川面に小舟が浮かび、遠くには耕す馬が描かれています。**蒸気・人力・馬力**が一枚の中に並んでいる。ターナーはどれが勝つかを言いませんが、画面を支配しているのが何かは一目瞭然です。 **そして、絵から離れてください。** 3メートルほど下がると、それまで絵具のもやでしかなかったものが、突然、雨に煙る川の景色として立ち上がります。ターナーの絵は、近くで見ると何が描いてあるか分からないものが多く、これも例外ではありません。当時の批評家からは「絵具をぶちまけただけ」と酷評されました。 同時代の作家サッカレーはこの絵を評して「私は次の展覧会までに轢かれてしまうだろう」と書きました。冗談めかしていますが、**絵の中から機械がこちらへ出てくる**という感覚を、当時の人が確かに受け取っていた証拠です。

    メキシコ皇帝マクシミリアンの処刑

    メキシコ皇帝マクシミリアンの処刑

    エドゥアール・マネ — 1867-68年頃

    **この絵は、一度バラバラに切り刻まれました。** 今見えているのは、断片をつなぎ直したものです。そしてその切断と再生の経緯そのものが、この絵の見どころになっています。 **まず、絵の縁を見てください。** 画面のところどころに、何も描かれていない空白の帯が走っています。これは損傷ではなく、**失われた断片の跡**です。マネの死後、この絵は相続の過程で切り分けられ、売りやすい部分だけが取引されました。それを知った画家**ドガ**が激怒し、散逸した断片を一つずつ買い集めて、一枚のキャンバスに貼り直したのです。欠けた部分はそのまま残されました。ドガは、失われたものを埋めることを拒みました。 **次に、事件を知ってください。** 1864年、フランス皇帝ナポレオン3世は、ハプスブルク家のマクシミリアンをメキシコ皇帝として送り込みます。傀儡でした。しかしメキシコの共和派はこれを受け入れず、やがてフランスは軍を撤退させ、**マクシミリアンを見捨てます**。1867年、彼は二人の将軍とともに銃殺されました。 **そして構図を見てください。** 銃殺隊は驚くほど**近い**——数歩の距離で銃口を向けています。処刑というより、事務です。マクシミリアン本人はほとんど硝煙に隠れ、見えるのは**隣の将軍の手を握る左手**だけ。主役が主役として描かれていません。 **右端の男を見てください。** 彼は銃を撃たず、背を向けて撃鉄を整えています。淡々と、次の準備をしている。この無関心が、絵全体の冷たさを決定づけています。 **兵士の制服にも注目を。** メキシコ兵のはずが、彼らはフランス軍に酷似した軍服を着ています。マネの意図的な操作です。「これはメキシコ人がやったことではない、フランスがやったことだ」と、絵の中で名指ししている。 当然ながら、この絵はフランス国内で**展示も出版も禁じられました**。マネはこの主題に4度取り組み、本作は2番目のバージョンです。政治的検閲、画家の死、遺族による切断、ドガによる救出——絵そのものが波乱の歴史を背負っています。

    茶と銀の服を着たスペイン王フェリペ4世

    茶と銀の服を着たスペイン王フェリペ4世

    ディエゴ・ベラスケス — 1631-1632年頃

    **この絵は、近くで見ると失敗作に見えます。** 衣装の部分は、絵具の染みと引っ掻き傷のような線がでたらめに散らばっているだけ。ところが**5メートル下がってください。** その瞬間、銀の刺繍が光を放ちはじめます。糸の一本一本が見えるはずのない距離で、布の質感が完璧に立ち上がる。ベラスケスの魔法は、この往復でしか体験できません。 **衣装の色に注目してください。** スペイン・ハプスブルク家の宮廷は厳格で、王は原則として黒しか着ませんでした。ところがここでは、茶色のベルベットに銀の刺繍という豪奢な装いです。これは特別な機会の記録で、1629年に世継ぎバルタサール・カルロス王子が誕生した際の宣誓式に関わる正装と考えられています。**普段着ない服を着ている王**、というのがこの絵の前提です。 **次に、王の顔を見てください。** ハプスブルク家特有の突き出た下顎と厚い下唇。ベラスケスはこれを美化していません。表情は読み取れないほど無です。この「何も語らない顔」が、かえって権力の非人格性を伝えます。 **手を見てください。** 片手は剣の柄に置かれ、もう片方の手には**書状**が握られています。この書状に近づくと、文字が読めます——**ベラスケスの署名と「国王付き画家」の肩書き**です。王への請願書という体裁で、画家が自分の名前を絵の中に持ち込んでいる。ベラスケスが署名を入れた作品はごく少なく、彼がこの絵をどれだけ重視していたかが分かります。 **胸元を見てください。** 金の鎖に下がる**金羊毛騎士団**の徽章。当時の人が一目で王家と識別できる記号でした。 ベラスケスは24歳で宮廷画家になり、生涯フェリペ4世に仕えました。この絵はその関係の初期にあたり、**王を直接目の前にして描かれた**ものです。以後の数多くの王の肖像は、この一枚を原型として複製されていきました。

    アニエールの水浴

    アニエールの水浴

    ジョルジュ・スーラ — 1884年

    **縦2メートル、横3メートル。** この大きさは、当時のフランスでは神話や戦争や聖書の場面にしか許されないサイズでした。25歳のスーラは、そこに**川辺で寝そべる工員たち**を描きました。それだけで挑発です。 **まず、人物の配置を見てください。** 男たちは誰一人として互いに関わっていません。会話もなく、視線も交わさず、それぞれが違う方向を向いて静止している。まるで**古代ギリシャの浮彫**のように横一列に並び、時間が止まっています。印象派が追い求めた「動きの一瞬」の正反対です。スーラはこの絵のために油彩スケッチとデッサンを大量に描き、一体ずつ配置を計算しました。 **次に、少年の姿勢を見てください。** 水際で口に手を当て、川の向こうへ声を上げている少年。この身体の造形は、古代彫刻やルネサンス絵画の水の神を思わせます。労働者の子どもが、神話の登場人物の風格で描かれている。 **それから、背景を見てください。** 対岸には**煙を吐く工場の煙突**が並び、鉄道橋が横切っています。手前で憩っているのは、その工場で働く人たちです。牧歌的な水遊びの絵に見えて、後ろには彼らの労働が控えている。 **そして、水面と帽子に近づいてください。** ほとんどの部分は幅広の筆で塗られていますが、水面のきらめきや少年の赤い帽子の一部だけ、**小さな色の点が重ねられている**のが見えます。これは後年スーラが確立する**点描**の萌芽です。彼は数年後にこの絵に手を入れ、その部分だけ点描で描き直しました。一枚の絵に、彼のスタイルが変わる瞬間が保存されています。 この絵はサロンに落選しました。スーラはそれを機に独立系の展覧会へ移り、翌年から対岸を描いた《グランド・ジャット島の日曜日の午後》(シカゴ美術館)に着手します。**二枚はセーヌ川を挟んで向かい合う対の作品**で、こちらには労働者の午後、あちらにはブルジョワの午後が描かれている。落選が、美術史を動かした一枚です。

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    Essentials

    基本情報

    大人料金
    無料
    子ども料金
    無料
    滞在時間の目安
    3時間
    写真撮影
    撮影自由
    荷物預かり
    無料
    最寄駅
    Charing Cross Station(徒歩5分)
    最寄バス停
    Trafalgar Square(徒歩1分)
    音声ガイド
    あり / 英語等
    カフェショップWi-Fi
    Trivia

    知っていると見え方が変わる話

    コレクションは「国民のもの」

    所蔵する2,000点あまりの絵画は国民の共有財産と位置づけられ、年間361日、無料で公開されています。企画展のみ有料です。王室コレクションを母体とするルーヴルやプラドとは成り立ちが異なり、1824年に議会が銀行家の遺したコレクションを購入したことから始まりました。

    戦時中は絵を疎開させ、月に一枚だけ戻していた

    第二次大戦中、収蔵品はウェールズの採石場に疎開しました。館内が空になったことに対し、市民から絵を見たいという声が上がり、毎月一枚だけロンドンに戻して公開する「今月の絵」が行われました。空襲下でも人々が絵を見に並んだ記録が残っています。

    Access

    場所

    Trafalgar Square, London WC2N 5DN

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