The Virgin of the Rocks
レオナルド・ダ・ヴィンチ, 1491/2-1499年頃および1506-1508年
ナショナル・ギャラリー Room 51

聖母子を描くなら、ふつうは金の背景か、整った建物の中に座らせる。ところがレオナルドは、聖母マリアを苔むした岩の裂け目に連れ出してしまいました。しかも足元には湿った砂利、頭上には雨に削られた岩の庇(ひさし)、その奥には霧に沈む水辺。祭壇画としてはあり得ない設定です。
まず光を追ってみてください。 光は画面の外、左上から差し込み、四人の肌と衣だけを柔らかく照らして、周りの岩を闇に沈めています。輪郭線がどこにもないことに気づくはずです。レオナルドは色と色の境目を煙のようにぼかすスフマートという手法を使い、人物を空気の中に溶け込ませました。マリアの頬から首へ、影がどこで始まるか指させない——それがこの絵の凄みです。
次に四つの手に注目を。 中央のマリアは右手で幼い洗礼者ヨハネを抱き寄せ、左手は幼子キリストの頭上に浮かべて、触れずに守っています。その手の下から天使が指を伸ばし、赤い衣をひるがえしてこちらへ視線を送る。手だけを線でつなぐと、四人が一つの三角形に収まっているのが見えてきます。誰も画面から出て行かない、閉じた構図です。
背景の岩は単なる舞台装置ではありません。レオナルドは地質を観察し、水がどう岩を削るかを理解した上で描いています。世界が生まれたばかりの、時間の始まりの場所——そう感じさせる自然描写こそ、科学者でもあった彼にしか描けなかったものでした。
なお、この主題でレオナルドは二点描いており、もう一点はパリのルーヴル美術館にあります。二枚を見比べると、ロンドンの本作のほうが光と闇の対比が強く、より劇的です。