Whistlejacket
ジョージ・スタッブス, 約1762年
ナショナル・ギャラリー Room 34

背景が、ない。 風景も、厩舎も、手綱を引く馬丁も、地面すらない。淡い金褐色の虚空に、栗毛のサラブレッドが一頭、ほぼ実物大で後ろ足立ちになっている。それだけの絵です。そして、それだけの絵が、ナショナル・ギャラリー全体でも指折りの衝撃を放っています。
まず、離れて見てください。 この絵は建物の設計に組み込まれるように配置されていて、いくつもの部屋を貫くエンフィラード(部屋の扉が一直線に並ぶ見通し)の突き当たりに掛けられています。遠くの部屋からでも、暗い展示室の奥にこの馬だけが浮かび上がって見える。近づくにつれて馬が実物大に迫ってくる体験そのものが、展示の演出です。
近づいたら、筋肉を見てください。 前脚を持ち上げたルヴァードという馬術の姿勢で、腹から後脚にかけて全体重がかかっています。その負荷が、皮膚の下の筋の張り、浮き出た血管、緊張した腱として正確に描かれている。スタッブスは馬の解剖学に取り憑かれた画家で、農家の納屋を借りて馬の死体を吊るし、18か月かけて層ごとに解剖しながら図を起こしました。この馬が生きて見えるのは、皮の下が分かっているからです。
それから、目を見てください。 馬は首をひねってこちらを見ています。怯えとも威嚇ともつかない、しかし明らかに「意志」のある目です。当時、動物画は肖像画や歴史画より格下のジャンルとされていました。それをスタッブスは、王侯の肖像画と同じ大きさ、同じ真剣さで描いた。背景を消したことで、馬は誰かの所有物ではなく、一個の存在として立っています。
制作当初は「背景を描き忘れた未完成品ではないか」という噂まで立ちました。今では、依頼主である第2代ロッキンガム侯爵の意図だったと考えられています。1997年、ナショナル・ギャラリーがヘリテージ・ロッタリー基金の支援を受け1,100万ポンドで購入。人でも神話でもない、ただの一頭の馬にこれだけの存在感を持たせた絵は、ほかにありません。