The Arnolfini Portrait
ヤン・ファン・エイク, 1434年
ナショナル・ギャラリー Room 52

この絵の主役は、実は奥の壁に掛かった小さな凸面鏡です。 直径わずか数センチ。そこに部屋の全景が映り込み、さらに——夫妻の背中の向こう、こちらに立っているはずの二人の人物が映っています。つまり画家は、絵を見ている私たちの位置に誰かがいる、という空間を作ってしまった。1434年の絵です。写真の発明より400年も前に、これをやっています。
鏡の真上には流麗な筆記体で「Johannes de eyck fuit hic 1434(ヤン・ファン・エイクここにありき 1434年)」と書かれています。ふつう画家の署名は隅に小さく入れるもの。それを部屋の壁に落書きのように大書きしたのは、鏡に映る人物の一人が自分だと言いたかったからでしょう。証人としてその場に立ち会った、という宣言です。
細部は、近づけるだけ近づいて見てください。 シャンデリアの真鍮の反射、床板の木目、犬の毛の一本一本、窓辺のオレンジの皮のざらつき、鏡の枠を囲む十枚の極小の受難図。これが可能になったのは、ファン・エイクが油絵具を使いこなしたからです。それまで主流だったテンペラ(卵で溶く絵具)は乾きが速く、こうした微妙なぼかしや透明な重ね塗りができませんでした。油絵具は乾きが遅いぶん、薄い色の層を何度も重ねて、内側から光るような深みを出せる。宝石の輝きも、毛皮の柔らかさも、真鍮の冷たい反射も、同じ絵具で描き分けられているのはそのためです。
描かれているのはブルージュで活動したイタリア商人の一家。寝室に立つ二人は、天蓋付きのベッド、輸入されたオレンジ、上等な毛皮という当時の贅沢品に囲まれています。女性のふくらんだ腹は妊娠ではなく、布をたっぷり使ったドレスの流行——布地の量そのものが富の誇示でした。何を描いたかではなく、どれだけ持っているかを描いた絵、とも言えます。
シャンデリアに灯る蝋燭が一本だけ、しかも昼間なのに、という謎は今も決着していません。婚礼の儀式の名残とも、神の臨在の象徴とも言われますが、確かなことは分かっていない。600年近く見られ続けて、まだ読み解かれ切っていないという事実が、この絵の底知れなさです。