A History of Britain/帝国のあとの現在

    1973年〜現在

    EC加盟から離脱、そして現在|ヨーロッパとの距離を測り直す島

    Modern Britain

    サッチャーの改革、金融ビッグバン、ロンドンの再国際化。そして2016年の国民投票と2020年の離脱。この島は今も、ヨーロッパとの距離を測り直し続けています。入国審査で日本人がETAを必要とするようになったのも、その帰結のひとつです。

    Still here today

    今のロンドンに残っているもの

    なぜ日本人がイギリスに行くのに、ETA が必要になったのか

    EU離脱後、英国が独自の国境管理制度を一から作り直したからです。EU加盟中は域内の自由移動が前提で、英国が独自に事前渡航認証を設計する余地は限られていました。離脱後、米国のESTAや欧州のETIASに相当する仕組みとして ETA が導入され、2026年2月25日に全面施行。日本国籍でも£20 の事前申請が必須です。取らずに空港へ行くと搭乗を断られます。

    なぜヒースローの入国審査から「EU市民」の列が消えたのか

    2021年1月から、EU市民が第三国の国民と同じ扱いになったからです。それまであった EU/EEA 用のレーンは廃止されました。皮肉なことに、日本を含む一部の国のパスポートは eGate(自動化ゲート)を使えるので、日本人のほうがEU市民より早く通過できる場面すらあります。

    なぜカナリー・ワーフには、突然のように高層ビル群があるのか

    閉鎖されたドックの跡地だからです。帝国の物流を支えた港湾(第6章)はコンテナ化で不要になり、1980年までにほぼ全廃。荒れ果てた広大な空き地に、1980年代の規制緩和と金融ビッグバンが金融街を建てました。帝国の遺構の上に、金融の首都が建っている——ロンドンの経済史がそのまま地形になっています。

    1973年、英国は EC(欧州共同体) に加盟します。二度の申請をフランスに拒否されたのち、三度目でようやく実現しました。

    この加盟は、当初から国内で割れていました。1975年には残留の是非を問う国民投票が行われ、67%が残留を支持しています。それでも「ヨーロッパの一員か、それとも別のものか」という問いは消えませんでした。

    その問いに、41年後の2016年、逆の答えが出ます。

    この最終章では、そこに至る道筋を追います。サッチャーによる経済構造の転換、ロンドンの金融都市としての再生、多文化都市としての成熟、そして離脱。今日ロンドンで見えているものの、直接の来歴です。

    1. サッチャーの11年——何が変わったのか

    1979〜1990年

    英国の現代史で、最も評価が割れる人物です。

    やったことは明確でした。

    • 国有企業の民営化——British Telecom、British Gas、British Airways、水道、電力
    • 労働組合の力の削減——1984〜85年の炭鉱ストライキを1年かけて押し切った
    • 公営住宅の売却(Right to Buy)——入居者が住んでいる公営住宅を割引価格で買える制度
    • 金融規制の緩和——1986年の金融ビッグバン

    この結果、英国経済の構造が変わります。製造業と炭鉱が縮小し、金融とサービス業が中心になりました。

    評価が割れる理由は、この転換の受益者と被害者がはっきり分かれたからです。ロンドンと南東部は金融で潤い、北部イングランド、ウェールズ、スコットランドの工業地帯は雇用を失いました。炭鉱閉鎖で職を失った町の一部は、40年経った今も回復していません。

    Right to Buy も両義的でした。数百万人が持ち家を得た一方、売却された公営住宅の建て替えが行われなかったため、社会住宅のストックが激減します。今日のロンドンの住宅危機——家賃の高騰と社会住宅の不足——は、この時期に直接の起源があります。

    そして1986年の金融ビッグバンが、ロンドンを変えました。証券取引の規制が撤廃され、外国資本の参入が自由化され、取引が電子化されます。米国と日本の金融機関が大挙して進出しました。シティの中世以来の街区に高層ビルが建ち始め、カナリー・ワーフの開発が始まります。

    ロンドンが今の「国際金融都市」になったのは、この時点からです。

    1983年のマーガレット・サッチャー

    民営化、労働組合の弱体化、Right to Buy、金融ビッグバン。英国現代史で最も評価が割れる11年。

    画像: Rob Bogaerts (CC0)

    補足

    サッチャーへの評価について

    英国では今も強い感情を伴う話題です。2013年の死去時、一部地域で祝賀の集まりが開かれる一方、国葬に準じる葬儀が行われました。パブなどで話題に出す際は、相手の出身地(南東部か、旧工業地帯か)で反応が大きく違うことを念頭に置くのが無難です。

    2. ロンドンの再生——ドックランズと五輪

    帝国の港湾(第6章)は、20世紀後半に役目を終えました。コンテナ化によって、大型船が入れる深水港(ティルベリー、フェリクストウ)に貨物が移り、ロンドン中心部のドックは不要になります。1980年までにほぼすべてが閉鎖されました。

    残ったのは、都心から数キロの位置にある広大な荒地でした。

    1981年、政府は London Docklands Development Corporation を設置し、地元自治体の計画権限を超える強い権限を与えて再開発を進めます。1987年に着工したカナリー・ワーフは、当初は失敗が囁かれ、開発会社が一度破綻しました。しかしJubilee line の延伸(1999年)で交通が確保されると急速に埋まり、今ではシティと並ぶ金融街になっています。

    2012年のロンドン五輪は、同じ手法を東ロンドンで繰り返したものです。ストラトフォード周辺の工業跡地と汚染された土地を浄化し、競技場と選手村を建て、大会後に住宅と公園(Queen Elizabeth Olympic Park)に転換しました。エリザベス・ラインの開通(2022年)も、この軸を強化しています。

    このやり方には批判もあります。再開発が地価と家賃を押し上げ、もともと住んでいた低所得層が押し出される(ジェントリフィケーション)。ハックニーやペッカム、そしてブリクストン(第9章)でも同じ現象が起きており、ロンドンで最も政治的な争点のひとつです。

    ロンドンの人口は1939年の約860万人をピークに戦後は減少し、1988年に約670万人まで落ち込みました。その後は移民と再開発によって回復し、現在は過去最高水準を更新しています。市民の3分の1以上が英国外の出生で、300以上の言語が話される都市になりました。

    夜のカナリー・ワーフ

    1980年までにすべて閉鎖されたドックの跡地。1987年に着工した塔が、都心から数キロの荒地を金融街に変えた。

    画像: Diliff (CC BY-SA 3.0)

    覚えておくと効くこと

    • カナリー・ワーフの地下には、旧ドックの水路がそのまま残っています。オフィス街の足元に係船柱や水門の遺構が保存されており、注意して歩くと見つかります。
    • Queen Elizabeth Olympic Park は無料で入れます。V&A East、ロンドン・スタジアム、ArcelorMittal Orbit(滑り台つき展望塔)があり、五輪後の転換の実例を歩いて見られます。

    3. 連合王国のほころび——権限移譲と北アイルランド

    1997年に発足したブレア政権は、権限移譲(devolution) を実行します。

    • スコットランド議会(1999年)——立法権と課税権の一部を持つ
    • ウェールズ議会(1999年、後に立法権を拡大)
    • 北アイルランド議会(1998年のベルファスト合意にもとづく)

    第6章で見た1707年の合同から約300年を経て、統治構造が部分的に巻き戻されたことになります。

    北アイルランドは、この時期の最大の成果です。1960年代末から30年続いた紛争(The Troubles)で約3500人が死亡しました。ロンドンでもIRAによる爆弾事件が繰り返され、ロンドンの街からゴミ箱が消えたのはこの時期の名残です(爆発物を仕掛けられるため)。今も駅の透明なゴミ袋にその痕跡があります。

    1998年のベルファスト合意(聖金曜日合意) が、この紛争に政治的な枠組みを与えました。武装解除、権力分有政府、そして「アイルランド島の南北の国境を実質的に見えなくする」ことが、その要でした。

    そして、この最後の点がEU離脱で問題になります。英国とアイルランドが両方EUに属していたからこそ、国境検査なしで人と物が行き来できていたからです。離脱後、この問題を解決するために北アイルランドだけEUの単一市場ルールの一部に残す取り決め(北アイルランド議定書、後にウィンザー枠組み)が作られましたが、実質的にアイリッシュ海に通関の線が引かれることになり、政治的な火種になりました。

    スコットランドでは2014年に独立の是非を問う住民投票が行われ、55%対45%で残留となりました。しかし2016年の離脱投票でスコットランドは62%が残留を支持しており(イングランドと逆の結果)、独立論の根拠として今も引かれ続けています。

    ホリールードのスコットランド議会

    1999年に発足し、立法権と課税権の一部を持つ。1707年の合同から約300年を経た巻き戻し。

    画像: Allie_Caulfield (CC BY 2.0)

    4. 2016年6月23日——51.9%対48.1%

    国民投票の結果は、離脱51.9%、残留48.1%。投票率72.2%。

    結果は地理的にも世代的にもきれいに割れました。

    • イングランドとウェールズは離脱多数、スコットランドと北アイルランドは残留多数
    • ロンドンは約60%が残留(イングランドの他地域と逆)
    • 若年層ほど残留、高齢層ほど離脱
    • 大学都市と大都市は残留、旧工業地帯と地方は離脱

    サッチャー期に産業を失った地域が離脱に投票した、という構図がしばしば指摘されます。「取り残された」という感覚が投票行動につながった、という分析です。

    争点は主に移民、主権、EU拠出金でした。とりわけ2004年のEU拡大以降、東欧からの移民が急増したことが議論の中心になります。

    その後の3年半は、政治的な混乱が続きました。メイ首相が離脱協定をまとめられずに辞任し、ジョンソン首相のもとで2019年に総選挙、2020年1月31日に離脱。移行期間を経て、2021年1月1日に完全離脱しました。

    離脱後に実際に変わったことを、旅行者・在住者の目線で挙げると次のとおりです。

    項目変化
    入国審査EU市民専用レーンが廃止。全員が同じ扱いに
    日本人の渡航ETA が必須(£20、2026年2月25日から全面施行)
    英国人のEU滞在90日/180日ルールの対象に
    通関EU⇄英国の物流に通関手続きが復活
    携帯ローミングEU域内の無料ローミングが原則終了
    大学Erasmus+ から離脱、独自の Turing Scheme へ
    労働力医療・農業・接客業で人手不足が顕在化

    評価はまだ定まっていません。経済への影響、移民の実際の増減、そして再加盟論——いずれも議論が続いています。近年の世論調査では離脱を後悔する回答が上回る傾向がありますが、政治的な再加盟の動きは限定的です。

    辞任を表明するデービッド・キャメロン首相

    2016年6月24日朝、国民投票の翌日。離脱51.9%対残留48.1%、投票率72.2%。

    画像: Tom Evans (OGL 3)

    注意

    旅行者として押さえるべき実務は1点です

    日本のパスポートで英国を訪れるなら、出発前に ETA(£20)を取得してください。2026年2月25日に猶予期間が終わり、航空会社は ETA のない乗客の搭乗を拒否する義務があります。申請はアプリで10分程度ですが、直前だと審査が間に合わないことがあります。

    5. そして今——2000年後のロンドン

    第1章で、ローマ人が「橋を架けられる最も海寄りの地点」という理由でこの場所を選んだ話をしました。

    その選択から約2000年。この街は、焼かれ(60年、1666年、1940年)、捨てられ(5世紀)、疫病に襲われ(1348年、1665年)、そのたびに建て直されてきました。城壁の線は今も金融街の境界として残り、1863年の地下鉄は今も走り、1860年代の下水道は2025年まで現役でした。

    現在のロンドンは、市民の3分の1以上が英国外の生まれで、300以上の言語が話される都市です。第9章で見たウィンドラッシュ世代の子や孫が街の中核を担い、市長にはパキスタン系移民の子が選ばれています。ローマ人が作り、サクソン人が捨て、ノルマン人が城で威圧し、帝国が富を集め、爆撃が焼いた街は、今そういう場所になりました。

    2022年にエリザベス2世が70年の在位を終えて亡くなり、チャールズ3世が即位します。戴冠式は、1066年の征服王以来と同じウェストミンスター寺院で、13世紀の椅子に座って行われました。第5章で見たとおり、その王権は議会に従属します。1649年に一度斬首され、1689年に条件付きで再定義された王権です。

    歴史は、ロンドンでは博物館の中にありません。通勤経路の上にあります。

    第1章から順に読んできた方は、これで全10章の最後です。次にロンドンの街を歩くとき、駅名の由来や道の曲がり方が、少しだけ違って見えるはずです。

    ウォータールー橋から見たロンドンの街並み

    焼かれ、捨てられ、疫病に襲われ、そのたびに建て直されてきた街。ローマ人が橋の場所を選んでから約2000年。

    画像: Diliff (CC BY-SA 3.0)

    Timeline

    この章の年表

    1973年〜現在・同じころの日本つき

    1. 1973年

      EC(欧州共同体)に加盟

      日本ではオイルショックの年

    2. 1979年

      サッチャー政権発足。民営化と規制緩和へ

      日本では昭和54年

    3. 1986年

      金融ビッグバン。ロンドンが世界の金融センターとして再生する

      日本ではバブル経済の入口

    4. 1994年

      英仏海峡トンネル開通。大陸と陸路でつながる

      日本では平成6年

    5. 1997年

      ブレア政権。スコットランド・ウェールズへの権限移譲、香港返還

      日本では平成9年・アジア通貨危機

    6. 1998年

      ベルファスト合意。北アイルランド紛争が政治的解決へ

      日本では平成10年

    7. 2012年

      ロンドン五輪。東ロンドンの再開発が進む

      日本では平成24年

    8. 2016年6月23日

      国民投票で離脱が51.9%。翌日キャメロン首相が辞任

      日本では平成28年

    9. 2020年1月31日

      EU離脱。移行期間を経て2021年1月に完全離脱

      日本では令和2年

    10. 2026年2月25日

      ETA が全面施行。日本国籍も事前申請が必須に

      日本では令和8年

    Where to stand

    この章に立てる場所

    この時代の物証が、今も実際に見られる場所です。復元やレプリカではなく、 当時のものが残っている地点だけを挙げています。

    1. 1

      カナリー・ワーフ

      Canary Wharf

      帝国の物流を支えた West India Docks の跡地に建った金融街。オフィス群の足元に旧ドックの水路・係船柱・倉庫が保存されており、第6章と第10章が同じ場所に重なっています。隣接するドックランズ博物館(無料)が経緯を解説。

      最寄り
      Canary Wharf 駅(Jubilee line/Elizabeth line/DLR)
      見学

      屋外・常時・無料。博物館は無料。

    2. 2

      クイーン・エリザベス・オリンピック・パーク

      Queen Elizabeth Olympic Park, Stratford

      2012年五輪の跡地を住宅・公園・文化施設に転換した区域。V&A East(2025年開館)、ロンドン・スタジアム、ArcelorMittal Orbit。再開発による都市の作り替えという、この章の主題が最も新しい形で見られる場所です。

      最寄り
      Stratford 駅(Elizabeth line/Jubilee line/DLR)
      見学

      公園は無料・常時。各施設は個別に有料。

    3. 3

      国会議事堂とパーラメント・スクエア

      Houses of Parliament and Parliament Square

      第3章のウェストミンスター・ホール、第5章の内戦、そして現在の議会がひとつの建物に重なっています。広場にはチャーチル、マンデラ、ガンジー、そして女性参政権運動家ミリセント・フォーセット(2018年設置、広場初の女性像)の像が並びます。誰の像が立つかという選択そのものが、現在進行形の歴史です。

      最寄り
      Westminster 駅(徒歩1分)
      見学

      広場は屋外・常時・無料。議事堂内部はツアー(有料・要予約)。

    4. 4

      ブリック・レーンとスピタルフィールズ

      Brick Lane and Spitalfields

      ユグノー → ユダヤ系 → バングラデシュ系 → そして現在のアート・ファッションと、移民とジェントリフィケーションの層が重なった通り。第9章で見た同じ場所を、この章の視点(再開発と地価上昇)で歩くと違うものが見えます。

      最寄り
      Aldgate East 駅/Shoreditch High Street 駅(各徒歩5分)
      見学

      屋外・常時・無料。日曜のマーケットが最も賑やか。

    同じころ、日本では

    英国がECに加盟した1973年は、日本では第一次オイルショックの年。両国とも戦後の高度成長が終わる転換点でした。

    1986年の金融ビッグバンは、日本のバブル経済の入口とほぼ同時期です。この時期、日本の金融機関がシティに大量に進出し、ロンドンの日本人コミュニティが急拡大しました。現在も残る日系のスーパー、学校、書店の多くはこの時期に基礎ができています。バブル崩壊後に多くが撤退しましたが、その後の在留邦人はビジネス駐在から留学・永住へと構成が変わりました。

    日本の「金融ビッグバン」(1996年、橋本内閣)という呼称自体、英国の1986年の改革から取られたものです。政策の名前を輸入したことになります。

    そして2020年。英国がEUを離脱した年に、日英は離脱後初の主要な通商協定である日英包括的経済連携協定(EPA) を締結しました。英国が離脱後に最初に本格交渉した相手国のひとつが日本だったわけです。2023年には英国がCPTPP(環太平洋パートナーシップ)に加入し、ヨーロッパから離れた英国が、アジア太平洋に接近するという新しい構図が生まれています。

    よくある質問

    参考・公式情報

    料金・時刻・制度は変更されます。本記事は2026年8月時点の情報です。渡航前に各公式サイトで最新情報をご確認ください。

    イギリスの歴史 全10章 の第10章です。