Still here today
今のロンドンに残っているもの
なぜ曜日の名前が、そろって北欧の神々なのか
アングロサクソンが自分たちの神の名を当てはめたからです。Tuesday は戦の神テュール(Tiw)、Wednesday は主神オーディン(Woden)、Thursday は雷神トール(Thor)、Friday は女神フリッグ(Frigg)。ローマ由来の暦の枠に、ゲルマンの神を差し替えて訳したものです。日本語の「火・水・木・金」が惑星名なのとは、まったく別の由来で今の形になっています。
なぜ英語の動詞は go/went のように不規則なのか
基礎語彙がこの時代の古英語に由来し、その後の言語接触で歪んだからです。日常のいちばん深いところにある語——water、house、eat、drink、man、wife——はほぼすべて古英語です。使用頻度が高い語ほど規則化の圧力に抵抗して古い形を残すため、be動詞や go のような最重要語だけが不規則なまま化石化しました。
なぜ「Yorkshire」「Hampshire」と、州名に -shire がつくのか
アングロサクソン時代の行政区分 scir(シャイア) がそのまま残っているためです。9〜10世紀に軍事・徴税の単位として整備され、1000年以上ほぼ同じ線で使われ続けています。州長官を意味する sheriff も shire-reeve(シャイアの代官)の縮約です。
ローマ撤退後の約200年は、イギリス史でいちばん資料が乏しい時期です。かつては「暗黒時代(Dark Ages)」と呼ばれましたが、今の歴史学ではあまり使いません。暗かったのは時代ではなく、こちらの視界だからです。
分かっているのは、5世紀以降、北海の対岸——現在のデンマーク南部からドイツ北部、オランダにかけて——から、アングル人・サクソン人・ジュート人と呼ばれるゲルマン系の集団が渡ってきたことです。侵略だったのか、緩やかな移住と同化だったのかは今も議論が続いています。近年のDNA研究は、大規模な人の移動が実際にあったことを支持する方向に傾いています。
はっきりしているのは結果のほうです。言語が入れ替わりました。ローマの400年でも定着しなかったラテン語に対し、この人々の言葉は島の大部分を覆い、古英語(Old English)になります。ブリトン人が話していたケルト系の言語は、ウェールズ語・コーンウォール語として島の西端に押しやられました。
そしてこの島は、アングル人の土地——Angle-land、England と呼ばれるようになります。
目次
1. ロンドンは、いちど別の場所に引っ越していた
ローマ撤退後、城壁の中のロンディニウムは放棄されます。石造りの廃墟は、アングロサクソンにとって手に負えない代物でした。彼らは木造建築の民で、古英語の詩はローマの遺構を「巨人の造りしもの(enta geweorc)」と表現しています。自分たちの技術では説明のつかない建物、という認識です。
7世紀ごろ、彼らは城壁の西、現在のコヴェント・ガーデンからストランドにかけての一帯に交易集落を作りました。ルンデンウィック(Lundenwic) です。防御を捨てて、川岸で船を着けやすい平地を選んだ形になります。
そしてこの地名が、今も残っています。Aldwych ——「古い(ald)ウィック(wic)」。BBCの旧本部や LSE の近く、キングズウェイとストランドが交わるあたりの地名です。ロンドンで最も何気ない地名のひとつが、1300年前の集落の名残です。
9世紀、ヴァイキングの襲撃が激化すると、無防備な Lundenwic は維持できなくなります。886年、アルフレッド大王が住民を城壁の内側に戻しました。ローマの壁が、400年ぶりに本来の用途で使われたわけです。この再建された市域が Lundenburh(burh=防御された町)で、現在のシティに直接つながります。

ald(古い)+ wic。城壁の西にあったサクソンの交易集落の名が、通りの名として残っている。
補足
-wich / -wick で終わる地名
Ipswich、Norwich、Woolwich なども同じ wic(交易集落)が語源です。地名の末尾を見るだけで、そこが何だった場所か推測できます。-ton は囲われた集落、-ham は村、-ford は渡渉点、-bury は防御拠点。
2. アルフレッド大王——なぜ「大王」と呼ばれる唯一の英国王なのか
871〜899年
イングランド史で the Great を冠されるのは、アルフレッドただ一人です。
9世紀後半、ヴァイキングの大異教軍(Great Heathen Army)がイングランドを席巻し、七王国のうちノーサンブリア・イースト・アングリア・マーシアが次々に倒れます。残ったのは南西のウェセックスだけ。アルフレッドは一時、湿地帯(サマセットのアセルニー)に逃げ込むところまで追い詰められました。
そこから彼が行ったのは、軍事的な巻き返しだけではありません。
- バラ(burh)の建設——全土に規格化された防御拠点の網を作り、住民が一日で避難できる距離に配置した
- 常備軍の輪番制——農民兵を二交代にし、片方が戦っている間もう片方が農業を続けられるようにした
- 海軍の創設——上陸される前に海上で迎え撃つ発想
- 教育と翻訳——ラテン語の重要書物を古英語に訳させ、自らも翻訳に加わった
最後の項目が、彼を「大王」にしました。当時のヨーロッパで、王が自国語での識字を国家事業にした例はほとんどありません。『アングロサクソン年代記』の編纂が始まったのも彼の治世です。
878年のエディントンの戦いで勝利したあと、アルフレッドはヴァイキングの王グズルムと講和し、イングランドを分割します。北東側がヴァイキングの法が行われる地域——デーンロウ(Danelaw) です。

イングランド史で the Great を冠されるのは、今もアルフレッドただ一人。
覚えておくと効くこと
- デーンロウの範囲は、今も地名で分かります。-by(Derby、Grimsby、Whitby)、-thorpe(Scunthorpe)はいずれも古ノルド語由来。イングランド北東部に集中しています。
- 英語の代名詞 they / them / their は古ノルド語からの借用です。代名詞という言語の最も基礎的な部分が置き換わるのは、極めて異例の深い接触を意味します。
- sky、skin、egg、knife、window、husband、law も北欧語由来。shirt(英)と skirt(北欧)のように、同語源の語が両方残って意味が分かれた例もあります。
3. 1066年の起点——エドワード懺悔王とウェストミンスター寺院
この章の終わりは、次章の始まりに直結します。
エドワード懺悔王(Edward the Confessor) は、母がノルマンディー公家の出で、若い頃をノルマンディーで亡命生活を送った王でした。信仰に篤く、生涯の事業としてテムズ川の中州(Thorney Island)に壮大な修道院を建てます。西の大聖堂——West Minster、ウェストミンスター寺院です。
1065年12月28日に献堂。その一週間後、1066年1月5日にエドワードは死去し、完成したばかりの自分の寺院に葬られました。
そして彼には子がいませんでした。
王位を主張したのは3人。義兄のハロルド・ゴドウィンソン、ノルウェー王ハーラル苛烈王、そしてノルマンディー公ギヨーム——後のウィリアム征服王です。エドワードが以前ノルマンディー公に王位を約束したかどうかが争点になりました。
この年、イングランドは二度の大きな戦いを経験します。9月にスタンフォード・ブリッジでノルウェー軍を破ったハロルドは、そのまま南へ強行軍し、10月14日にヘイスティングズでノルマン軍と対峙しました。
ウェストミンスター寺院はその後、すべての戴冠式の場所になります。1066年のクリスマスに征服王がここで戴冠して以来、2023年のチャールズ3世まで、960年近く同じ建物で王冠が授けられてきました。

献堂の一週間後にエドワードは死に、完成したばかりの自分の寺院に葬られた。タペストリーはその場面を左端に描いている。
画像: Université de Caen Normandie / CNRS / ENSICAEN (Public domain)
注意
「アングロサクソン期の建物」はほとんど残っていません
現在のウェストミンスター寺院は13世紀にヘンリー3世が全面的に建て替えたもので、エドワードのロマネスク様式の建物はほぼ失われています。ロンドン市内でアングロサクソン期の現物を見られる場所は、この章で挙げた数か所に限られます。
Timeline
この章の年表
410年〜1066年・同じころの日本つき
410年
ローマ撤退。ロンディニウムは数十年のうちにほぼ無人になる
日本では古墳時代
5〜6世紀
アングル人・サクソン人・ジュート人が渡来。七王国が形成されていく
日本では古墳時代
597年
聖アウグスティヌスがケントに上陸、キリスト教の再布教が始まる(カンタベリー大司教座の起源)
日本では飛鳥時代・推古天皇の治世
793年
リンディスファーン修道院襲撃。ヴァイキング時代の始まりとされる
日本では平安京遷都の直前
871〜899年
アルフレッド大王の治世。ヴァイキングの侵攻を食い止め、ロンドンを再建する
日本では平安時代前期
886年
アルフレッドがロンドンを奪回し、ローマ城壁の内側に街を戻す(Lundenburh)
日本では平安時代前期
1016年
デーン人のクヌートがイングランド王に。北海帝国の一部となる
日本では藤原道長の全盛期
1066年1月
エドワード懺悔王が死去。ウェストミンスター寺院に埋葬される。王位継承争いが始まる
日本では平安時代後期
Where to stand
この章に立てる場所
この時代の物証が、今も実際に見られる場所です。復元やレプリカではなく、 当時のものが残っている地点だけを挙げています。
- 1
オール・ハローズ・バイ・ザ・タワー
All Hallows by the Tower
ロンドン最古の教会(675年創建)。南西の壁に7世紀のサクソン式アーチが現存し、そこにはローマ期の瓦が再利用されています。地下のクリプトには2世紀ローマの床モザイクも。ロンドン大火とブリッツの両方を生き延びた稀有な建物です。
- 最寄り
- Tower Hill 駅(徒歩3分)
- 見学
無料。日曜の礼拝時間を避ければ自由に見学できます。
- 2
ウェストミンスター寺院
Westminster Abbey
エドワード懺悔王の廟が主祭壇の奥にあります。建物自体は13世紀の再建ですが、彼の墓所は創建以来の位置。1066年以降のすべての戴冠式が行われた場所で、戴冠椅子(King Edward's Chair, 1300年ごろ)も展示されています。
- 最寄り
- Westminster 駅(徒歩4分)
- 見学
有料・オンライン予約推奨。日曜は礼拝のため観光見学不可。
- 3
大英博物館 サットン・フー展示室
British Museum, Room 41
1939年にサフォークで発掘された7世紀の船葬墓の副葬品。有名な鉄兜、金の肩留め、ビザンツの銀器などが並びます。「暗黒時代」という呼び名を過去のものにした発見で、当時のアングロサクソン王侯が地中海世界と交易していた証拠です。
- 最寄り
- Tottenham Court Road 駅/Russell Square 駅(各徒歩7分)
- 見学
無料・予約不要。
- 4
オールドウィッチ(旧集落跡)
Aldwych
遺構は残っていませんが、この地名そのものが7〜9世紀の交易集落 Lundenwic の記憶です。ストランドとキングズウェイの交差する湾曲した通りを歩きながら、ここが城壁の外の川岸だった時代を想像する場所。
- 最寄り
- Temple 駅(徒歩5分)/Covent Garden 駅(徒歩8分)
- 見学
屋外・常時・無料。
同じころ、日本では
聖アウグスティヌスがケントに上陸してキリスト教を伝えた597年は、日本では推古天皇の治世が始まった直後(592年即位)にあたります。聖徳太子が摂政となり、仏教が国家の宗教として定着していく時期です。島の東西で、ほぼ同時に「外来の宗教が国家に採用される」 という同じことが起きていました。
アルフレッド大王がヴァイキングと戦っていた9世紀後半は、日本では平安時代前期。菅原道真が遣唐使の廃止を建議したのが894年で、アルフレッドの死(899年)の5年前です。
そしてノルマン征服の1066年は、藤原氏の摂関政治が終わりに近づき、院政の準備が進んでいた時期。『源氏物語』が書かれてから約60年後にあたります。
よくある質問
参考・公式情報
- British Museum — Sutton Hoo (Room 41)
- Westminster Abbey — History
- All Hallows by the Tower — Church History
- 英国国立公文書館 — Anglo-Saxons
料金・時刻・制度は変更されます。本記事は2026年8月時点の情報です。渡航前に各公式サイトで最新情報をご確認ください。
イギリスの歴史 全10章 の第2章です。