英国の退去とデポジット返還|不当な減額に反論する手順

    Moving Out and Getting Your Deposit Back

    入居初日に撮った写真が、1年後に数万円から数十万円を左右します。敷金は保護スキームに預けられており、大家が勝手に引くことはできません。合意できなければ**無料の裁定制度(ADR)**が使えます。退去通知の出し方から、争い方までの実務をまとめます。

    2026年8月時点の情報

    要点

    退去通知
    2ヶ月前に、家賃支払日以前に、書面で
    敷金の保持者
    大家ではなく保護スキーム。勝手に引けない
    争う手段
    各スキームの無料ADR(裁定)。弁護士不要
    勝敗を分けるもの
    入居時と退去時の写真・inventory
    未保護だった場合
    敷金の1〜3倍を別途請求できる

    敷金の返還は、英国で暮らす日本人が最も多く損をしている場面です。理由ははっきりしていて、「もめたくない」「英語で争いたくない」と思って、提示された減額をそのまま受け入れてしまうからです。

    しかし英国の制度は、借主にかなり有利にできています。敷金は大家の手元にはなく、政府認可の保護スキームが保持しています。大家が一方的に引くことはできず、合意できなければ無料の裁定手続きに進みます。そして裁定では、立証責任は大家側にあります

    つまり、証拠さえ持っていれば勝てる構造です。そしてその証拠は、入居初日に10分で作れます

    1. 入居初日にやること ——1年後の数十万円を決める10分

    これを読んでいるのが入居前なら、ここだけでも実行してください

    退去時の争いは、ほぼすべて「その傷は入居前からあったのか」をめぐるものです。証明できるのは記録だけです。

    inventory(check-in report)

    まともな大家・エージェントは、入居時に inventory を作成します。部屋の状態、家具のリスト、既存の傷や汚れを記録した書類で、写真つきのこともあります。

    受け取ったら必ず読み、実物と照合してください。 そして食い違いがあれば、署名する前に指摘して修正させます。署名した inventory は、退去時に大家側の証拠になります。

    inventory が作られない場合(個人の大家や lodger 契約で多い)、自分で作ってください。

    自分でやる手順

    1. 入居した日(荷物を入れる前)に、全部屋を撮影する。 部屋の四隅、床、壁、天井
    2. 既存の傷・汚れ・カビをすべてクローズアップで撮る。 壁の穴、床の傷、家具の破損、水回りの汚れ
    3. 家電と設備の動作を確認して撮る。 ボイラーの型番、メーターの数値(ガス・電気・水道)
    4. 写真の撮影日時が記録に残る形で保存する。 スマホの自動保存でよいので、クラウドに上げておく
    5. その日のうちに大家へメールで送る。 「入居時の状態を記録しました。相違があればお知らせください」と添えて

    最後のステップが決定的です。 メールで送っておけば、日付と内容が第三者に検証可能な形で残ります。返信がなくても構いません。送った記録があれば十分です。

    所要時間は10分程度です。これをやるかどうかで、退去時の交渉力がまったく変わります。

    実務メモ

    • メーターの数値(gas / electricity / water)は必ず撮ってください。光熱費の引き継ぎでもめる原因になります。
    • 既存のカビは特に重要です。退去時に「あなたが換気しなかったから」と言われたとき、入居時の写真が唯一の反論材料になります。
    • シェア物件なら、自分の部屋だけでなく共用部も撮っておいてください。共用部の損傷は全員に按分請求されることがあります。

    注意

    敷金が保護されているか、入居30日以内に確認する

    大家は敷金を受け取ってから30日以内に、政府認可のスキーム(DPS / MyDeposits / TDS)へ預ける法的義務があります。あなたには prescribed information(どこに、いくら、いつ預けたか)が通知されます。

    30日を過ぎても通知が来なければ、必ず確認してください。 3つのスキームはいずれも自社サイトで預託の有無を検索できます。

    未保護だった場合、借主は敷金の1〜3倍の賠償金を裁判所に請求できます(敷金そのものの返還とは別に)。月£1,000の部屋なら、敷金£1,154に加えて最大£3,462です。

    これは日本人が最も見逃している権利です。詳しくは初期費用と、払ってはいけない金を参照してください。

    2. 退去通知の出し方

    2ヶ月前・書面・家賃支払日以前

    2026年5月1日以降、借主はいつでも退去できます。条件は3つです。

    1. 2ヶ月前に通知する
    2. 書面で行う
    3. 家賃支払日以前に出す

    具体的な数え方

    家賃の支払日が毎月1日だとします。5月31日に退去したい場合、3月31日までに通知を出す必要があります(4月・5月の2ヶ月分)。

    「2ヶ月前」を漠然と数えて4月10日に出すと、退去日は6月30日にずれます。1ヶ月分の家賃が余計にかかるので、日付は正確に計算してください。

    通知に入れるべきこと

    • 対象の物件(住所・部屋番号)
    • 退去の意思であること
    • Renters' Rights Act 2025 にもとづく2ヶ月前通知であること
    • 具体的な退去日
    • 退去時検査(check-out inspection)の日程調整の依頼
    • 敷金返還の手続きについての確認
    • 受領確認の要求

    最後の項目を落とさないでください。「通知を受け取っていない」と言われるのが、最もよくあるトラブルです。返信が来なければ追って再送し、その記録も残します。

    そして退去日は曖昧に書かないこと。「2ヶ月後に出ます」ではなく、上の数え方で計算した具体的な日付を明記してください。日付が特定されていないと、通知の効力そのものが争いになります。

    固定期間の条項があっても関係ない

    契約書に「12ヶ月の固定期間」と書かれていても、現行法の下では効力を持ちません。契約は periodic tenancy に転換されており、2ヶ月前通知で終了できます。詳しくは契約形態の地図を参照してください。

    lodger の場合は別

    大家と同居する lodger(excluded licence)には、この規定は適用されません。契約書に定めた通知期間に従うことになります。

    3. fair wear and tear ——引かれてよいもの、いけないもの

    争点はほぼここに集約される

    大家は、通常の使用による劣化(fair wear and tear)を理由に敷金から引くことはできません。引けるのは、通常の使用を超える損傷や汚損です。

    この線引きが、退去交渉のほぼすべてです。

    引かれてはいけないもの(通常損耗)

    • カーペットの通り道の色あせ、毛足のへたり
    • 壁の小さな画鋲の穴、家具が触れていた部分の跡
    • 塗装の経年による変色、細かいひび
    • 水回りの軽度の水垢
    • 家電の経年劣化による故障
    • 設備の寿命による不具合(ボイラー、洗濯機など)

    引かれ得るもの(損傷)

    • 壁の大きな穴、落書き
    • カーペットの焦げ跡、消えないシミ
    • 割れた窓、破損した家具
    • 掃除をせずに残した汚れ(油汚れ、カビの放置)
    • 無断の改造(壁紙を貼った、棚を取り付けた)
    • 家具・鍵の紛失

    「経年(apportionment)」の考え方

    重要な原則があります。大家は「新品にする費用」を請求できません。

    たとえば耐用年数10年のカーペットを、8年使った時点であなたが汚したとします。大家が全面張り替えをしても、残りの2年分(元の価値の20%)しか請求できません。これを apportionment(按分)といい、ADR の裁定でも当然の前提として適用されます。

    「カーペットを張り替えたので£800」と請求されたら、そのカーペットが何年前に設置されたものかを聞いてください。答えられない場合、その請求は通りません。

    professional cleaning の強制は無効

    「退去時に専門業者のクリーニングを入れること」を義務づける条項は、Tenant Fees Act 2019 の下では原則として無効です。

    求められるのは「入居時と同程度の清潔さ」であって、プロの清掃を入れることではありません。自分で掃除して同程度にできるなら、それで足ります。

    ただし実務上は、入居時にプロの清掃が入っていた物件で、退去時に明らかに汚れている場合、清掃費の請求は正当と判断され得ます。ここでも入居時の写真が効きます。

    実務メモ

    • 退去日にも、入居時と同じ手順で全部屋を撮影してください。同じアングルで撮ると比較が容易になります。
    • check-out inspection(退去時の立会検査)には必ず立ち会ってください。立ち会わないと、後から出てきた指摘に反論しづらくなります。
    • 掃除は自分で丁寧にやれば十分です。ただしオーブンの内部、冷蔵庫、換気扇、水回りの水垢は見落とされやすく、指摘の定番なので重点的に。

    4. 不当な減額に反論する

    無料のADRがある

    退去後、大家から敷金の返還額が提示されます。減額に納得できない場合の手順です。

    第1段階:書面で内訳を求める

    まず、減額の根拠を項目ごとに示すよう求めます

    • 何に対する費用か
    • 金額の根拠(見積書・領収書)
    • その損傷が入居時に存在しなかったことの証拠

    大家がこれを示せない項目は、そもそも請求として成立していません。多くの場合、この段階で減額が縮みます。

    第2段階:スキームのADR(裁定)に持ち込む

    合意できなければ、敷金を預かっているスキーム(DPS / MyDeposits / TDS)の ADR(Alternative Dispute Resolution) を使います。

    • 無料です
    • 弁護士は不要。本人で申し立てられます
    • 書面審査で、双方が証拠を提出します
    • 立証責任は大家側にあります。「損傷があった」「その費用が妥当だ」を大家が証明できなければ、借主に返還されます
    • 裁定には拘束力があり、通常は数週間で結論が出ます
    • 争いのない部分の敷金は、先に返還されます

    ADR で提出する証拠

    • 入居時の写真(日付入り)
    • 退去時の写真
    • inventory / check-in report
    • 大家とのやり取りのメール
    • 相手の請求内訳と、それへの反論

    入居時の写真がある側が、ほぼ勝ちます。 これが、この記事の冒頭で入居初日の撮影を強調した理由です。

    敷金が保護されていなかった場合

    ADR は使えません(スキームに預けられていないため)。この場合は County Court に申し立てて、敷金の返還と1〜3倍の賠償金を請求します。少額訴訟(small claims track)はオンラインで申し立てでき、手数料も低額です。

    大家にとっては非常に不利な状況なので、「未保護である」と指摘した時点で全額返還に応じることが多いです。

    ヒント

    英語での交渉に不安がある場合

    ADR は書面手続きなので、口頭で議論する必要はありません。時間をかけて書けます。翻訳ツールを使っても構いません。

    無料で相談できる窓口もあります。

    • Citizens Advice — 全般的な無料相談。オンラインの情報も充実
    • Shelter — 住宅問題専門の慈善団体。電話相談あり
    • 各スキームのヘルプデスク — 手続きの進め方は無料で教えてもらえます

    「英語が不安だから諦める」のは、最ももったいない選択です。制度は借主に有利にできています。

    5. 退去のチェックリスト

    順番に潰す

    2ヶ月前

    • 退去通知を書面(メール)で送る。受領確認を求める
    • 退去日を正確に計算する(家賃支払日を基準に)
    • 次の物件を探し始める

    1ヶ月前

    • check-out inspection の日程を大家・エージェントと調整する
    • 入居時の写真と inventory を見返し、指摘されそうな箇所を把握する
    • 自分で修繕できるもの(画鋲の穴、軽い汚れ)に手を入れる
    • 光熱費・インターネットの解約または住所変更を手配する

    退去当日まで

    • 掃除(オーブン内部、冷蔵庫、換気扇、水回りの水垢を重点的に)
    • 家具・私物をすべて撤去する
    • 全部屋を撮影する(入居時と同じアングルで)
    • メーターの数値を撮影する(ガス・電気・水道)
    • 鍵をすべて返却し、返却したことの記録を残す

    退去後

    • 郵便物の転送を手配する(Royal Mail の redirection サービス)
    • 自治体に転出を届け出る(council tax の精算)
    • 敷金の返還提示を待つ
    • 減額があれば内訳を求め、納得できなければ ADR へ

    住所変更を忘れずに

    • 銀行
    • 勤務先
    • GP(かかりつけ医)
    • UKVI アカウント
    • 自治体(council tax、選挙人名簿)

    特に UKVI アカウントの住所更新は忘れがちです。 在留資格に関わる通知が届かなくなります。手続きは渡英後の手続きガイドで扱っています。

    よくある質問

    参考・公式情報

    料金・時刻・制度は変更されます。本記事は2026年8月時点の情報です。渡航前に各公式サイトで最新情報をご確認ください。

    本記事は情報提供を目的としたもので、法的助言ではありません。ここで扱う制度は イングランドのものです(スコットランド・ウェールズ・北アイルランドは別の法律が適用されます)。 Renters' Rights Act 2025 は段階的に施行が続いており、記載内容が最新でない可能性があります。 実際のトラブルにあたっては GOV.UK・Shelter の最新情報を確認し、深刻な事案(違法な立ち退き、 敷金の未返還、健康被害のある住環境など)では Citizens Advice、地元自治体の private housing team、または事務弁護士にご相談ください。

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