英国の退去とデポジット返還|不当な減額に反論する手順
Moving Out and Getting Your Deposit Back
入居初日に撮った写真が、1年後に数万円から数十万円を左右します。敷金は保護スキームに預けられており、大家が勝手に引くことはできません。合意できなければ**無料の裁定制度(ADR)**が使えます。退去通知の出し方から、争い方までの実務をまとめます。
要点
- 退去通知
- 2ヶ月前に、家賃支払日以前に、書面で
- 敷金の保持者
- 大家ではなく保護スキーム。勝手に引けない
- 争う手段
- 各スキームの無料ADR(裁定)。弁護士不要
- 勝敗を分けるもの
- 入居時と退去時の写真・inventory
- 未保護だった場合
- 敷金の1〜3倍を別途請求できる
敷金の返還は、英国で暮らす日本人が最も多く損をしている場面です。理由ははっきりしていて、「もめたくない」「英語で争いたくない」と思って、提示された減額をそのまま受け入れてしまうからです。
しかし英国の制度は、借主にかなり有利にできています。敷金は大家の手元にはなく、政府認可の保護スキームが保持しています。大家が一方的に引くことはできず、合意できなければ無料の裁定手続きに進みます。そして裁定では、立証責任は大家側にあります。
つまり、証拠さえ持っていれば勝てる構造です。そしてその証拠は、入居初日に10分で作れます。
目次
1. 入居初日にやること ——1年後の数十万円を決める10分
これを読んでいるのが入居前なら、ここだけでも実行してください
退去時の争いは、ほぼすべて「その傷は入居前からあったのか」をめぐるものです。証明できるのは記録だけです。
inventory(check-in report)
まともな大家・エージェントは、入居時に inventory を作成します。部屋の状態、家具のリスト、既存の傷や汚れを記録した書類で、写真つきのこともあります。
受け取ったら必ず読み、実物と照合してください。 そして食い違いがあれば、署名する前に指摘して修正させます。署名した inventory は、退去時に大家側の証拠になります。
inventory が作られない場合(個人の大家や lodger 契約で多い)、自分で作ってください。
自分でやる手順
- 入居した日(荷物を入れる前)に、全部屋を撮影する。 部屋の四隅、床、壁、天井
- 既存の傷・汚れ・カビをすべてクローズアップで撮る。 壁の穴、床の傷、家具の破損、水回りの汚れ
- 家電と設備の動作を確認して撮る。 ボイラーの型番、メーターの数値(ガス・電気・水道)
- 写真の撮影日時が記録に残る形で保存する。 スマホの自動保存でよいので、クラウドに上げておく
- その日のうちに大家へメールで送る。 「入居時の状態を記録しました。相違があればお知らせください」と添えて
最後のステップが決定的です。 メールで送っておけば、日付と内容が第三者に検証可能な形で残ります。返信がなくても構いません。送った記録があれば十分です。
所要時間は10分程度です。これをやるかどうかで、退去時の交渉力がまったく変わります。
実務メモ
- メーターの数値(gas / electricity / water)は必ず撮ってください。光熱費の引き継ぎでもめる原因になります。
- 既存のカビは特に重要です。退去時に「あなたが換気しなかったから」と言われたとき、入居時の写真が唯一の反論材料になります。
- シェア物件なら、自分の部屋だけでなく共用部も撮っておいてください。共用部の損傷は全員に按分請求されることがあります。
注意
敷金が保護されているか、入居30日以内に確認する
大家は敷金を受け取ってから30日以内に、政府認可のスキーム(DPS / MyDeposits / TDS)へ預ける法的義務があります。あなたには prescribed information(どこに、いくら、いつ預けたか)が通知されます。
30日を過ぎても通知が来なければ、必ず確認してください。 3つのスキームはいずれも自社サイトで預託の有無を検索できます。
未保護だった場合、借主は敷金の1〜3倍の賠償金を裁判所に請求できます(敷金そのものの返還とは別に)。月£1,000の部屋なら、敷金£1,154に加えて最大£3,462です。
これは日本人が最も見逃している権利です。詳しくは初期費用と、払ってはいけない金を参照してください。
2. 退去通知の出し方
2ヶ月前・書面・家賃支払日以前
2026年5月1日以降、借主はいつでも退去できます。条件は3つです。
- 2ヶ月前に通知する
- 書面で行う
- 家賃支払日以前に出す
具体的な数え方
家賃の支払日が毎月1日だとします。5月31日に退去したい場合、3月31日までに通知を出す必要があります(4月・5月の2ヶ月分)。
「2ヶ月前」を漠然と数えて4月10日に出すと、退去日は6月30日にずれます。1ヶ月分の家賃が余計にかかるので、日付は正確に計算してください。
通知に入れるべきこと
- 対象の物件(住所・部屋番号)
- 退去の意思であること
- Renters' Rights Act 2025 にもとづく2ヶ月前通知であること
- 具体的な退去日
- 退去時検査(check-out inspection)の日程調整の依頼
- 敷金返還の手続きについての確認
- 受領確認の要求
最後の項目を落とさないでください。「通知を受け取っていない」と言われるのが、最もよくあるトラブルです。返信が来なければ追って再送し、その記録も残します。
そして退去日は曖昧に書かないこと。「2ヶ月後に出ます」ではなく、上の数え方で計算した具体的な日付を明記してください。日付が特定されていないと、通知の効力そのものが争いになります。
固定期間の条項があっても関係ない
契約書に「12ヶ月の固定期間」と書かれていても、現行法の下では効力を持ちません。契約は periodic tenancy に転換されており、2ヶ月前通知で終了できます。詳しくは契約形態の地図を参照してください。
lodger の場合は別
大家と同居する lodger(excluded licence)には、この規定は適用されません。契約書に定めた通知期間に従うことになります。
3. fair wear and tear ——引かれてよいもの、いけないもの
争点はほぼここに集約される
大家は、通常の使用による劣化(fair wear and tear)を理由に敷金から引くことはできません。引けるのは、通常の使用を超える損傷や汚損です。
この線引きが、退去交渉のほぼすべてです。
引かれてはいけないもの(通常損耗)
- カーペットの通り道の色あせ、毛足のへたり
- 壁の小さな画鋲の穴、家具が触れていた部分の跡
- 塗装の経年による変色、細かいひび
- 水回りの軽度の水垢
- 家電の経年劣化による故障
- 設備の寿命による不具合(ボイラー、洗濯機など)
引かれ得るもの(損傷)
- 壁の大きな穴、落書き
- カーペットの焦げ跡、消えないシミ
- 割れた窓、破損した家具
- 掃除をせずに残した汚れ(油汚れ、カビの放置)
- 無断の改造(壁紙を貼った、棚を取り付けた)
- 家具・鍵の紛失
「経年(apportionment)」の考え方
重要な原則があります。大家は「新品にする費用」を請求できません。
たとえば耐用年数10年のカーペットを、8年使った時点であなたが汚したとします。大家が全面張り替えをしても、残りの2年分(元の価値の20%)しか請求できません。これを apportionment(按分)といい、ADR の裁定でも当然の前提として適用されます。
「カーペットを張り替えたので£800」と請求されたら、そのカーペットが何年前に設置されたものかを聞いてください。答えられない場合、その請求は通りません。
professional cleaning の強制は無効
「退去時に専門業者のクリーニングを入れること」を義務づける条項は、Tenant Fees Act 2019 の下では原則として無効です。
求められるのは「入居時と同程度の清潔さ」であって、プロの清掃を入れることではありません。自分で掃除して同程度にできるなら、それで足ります。
ただし実務上は、入居時にプロの清掃が入っていた物件で、退去時に明らかに汚れている場合、清掃費の請求は正当と判断され得ます。ここでも入居時の写真が効きます。
実務メモ
- 退去日にも、入居時と同じ手順で全部屋を撮影してください。同じアングルで撮ると比較が容易になります。
- check-out inspection(退去時の立会検査)には必ず立ち会ってください。立ち会わないと、後から出てきた指摘に反論しづらくなります。
- 掃除は自分で丁寧にやれば十分です。ただしオーブンの内部、冷蔵庫、換気扇、水回りの水垢は見落とされやすく、指摘の定番なので重点的に。
4. 不当な減額に反論する
無料のADRがある
退去後、大家から敷金の返還額が提示されます。減額に納得できない場合の手順です。
第1段階:書面で内訳を求める
まず、減額の根拠を項目ごとに示すよう求めます。
- 何に対する費用か
- 金額の根拠(見積書・領収書)
- その損傷が入居時に存在しなかったことの証拠
大家がこれを示せない項目は、そもそも請求として成立していません。多くの場合、この段階で減額が縮みます。
第2段階:スキームのADR(裁定)に持ち込む
合意できなければ、敷金を預かっているスキーム(DPS / MyDeposits / TDS)の ADR(Alternative Dispute Resolution) を使います。
- 無料です
- 弁護士は不要。本人で申し立てられます
- 書面審査で、双方が証拠を提出します
- 立証責任は大家側にあります。「損傷があった」「その費用が妥当だ」を大家が証明できなければ、借主に返還されます
- 裁定には拘束力があり、通常は数週間で結論が出ます
- 争いのない部分の敷金は、先に返還されます
ADR で提出する証拠
- 入居時の写真(日付入り)
- 退去時の写真
- inventory / check-in report
- 大家とのやり取りのメール
- 相手の請求内訳と、それへの反論
入居時の写真がある側が、ほぼ勝ちます。 これが、この記事の冒頭で入居初日の撮影を強調した理由です。
敷金が保護されていなかった場合
ADR は使えません(スキームに預けられていないため)。この場合は County Court に申し立てて、敷金の返還と1〜3倍の賠償金を請求します。少額訴訟(small claims track)はオンラインで申し立てでき、手数料も低額です。
大家にとっては非常に不利な状況なので、「未保護である」と指摘した時点で全額返還に応じることが多いです。
ヒント
英語での交渉に不安がある場合
ADR は書面手続きなので、口頭で議論する必要はありません。時間をかけて書けます。翻訳ツールを使っても構いません。
無料で相談できる窓口もあります。
- Citizens Advice — 全般的な無料相談。オンラインの情報も充実
- Shelter — 住宅問題専門の慈善団体。電話相談あり
- 各スキームのヘルプデスク — 手続きの進め方は無料で教えてもらえます
「英語が不安だから諦める」のは、最ももったいない選択です。制度は借主に有利にできています。
5. 退去のチェックリスト
順番に潰す
2ヶ月前
- 退去通知を書面(メール)で送る。受領確認を求める
- 退去日を正確に計算する(家賃支払日を基準に)
- 次の物件を探し始める
1ヶ月前
- check-out inspection の日程を大家・エージェントと調整する
- 入居時の写真と inventory を見返し、指摘されそうな箇所を把握する
- 自分で修繕できるもの(画鋲の穴、軽い汚れ)に手を入れる
- 光熱費・インターネットの解約または住所変更を手配する
退去当日まで
- 掃除(オーブン内部、冷蔵庫、換気扇、水回りの水垢を重点的に)
- 家具・私物をすべて撤去する
- 全部屋を撮影する(入居時と同じアングルで)
- メーターの数値を撮影する(ガス・電気・水道)
- 鍵をすべて返却し、返却したことの記録を残す
退去後
- 郵便物の転送を手配する(Royal Mail の redirection サービス)
- 自治体に転出を届け出る(council tax の精算)
- 敷金の返還提示を待つ
- 減額があれば内訳を求め、納得できなければ ADR へ
住所変更を忘れずに
- 銀行
- 勤務先
- GP(かかりつけ医)
- UKVI アカウント
- 自治体(council tax、選挙人名簿)
特に UKVI アカウントの住所更新は忘れがちです。 在留資格に関わる通知が届かなくなります。手続きは渡英後の手続きガイドで扱っています。
よくある質問
参考・公式情報
- GOV.UK - Renters' Rights Act: overview for tenants
- GOV.UK - Guide to the Renters' Rights Act
- legislation.gov.uk - Renters' Rights Act 2025
- legislation.gov.uk - Tenant Fees Act 2019 Schedule 1
- GOV.UK - Tenancy deposit protection
- Shelter England - 借主の権利に関する法情報
- ONS - Private rent and house prices, UK
- SpareRoom - UK Rental Index
- Transport for London - Adult fares and Travelcard prices
料金・時刻・制度は変更されます。本記事は2026年8月時点の情報です。渡航前に各公式サイトで最新情報をご確認ください。
本記事は情報提供を目的としたもので、法的助言ではありません。ここで扱う制度は イングランドのものです(スコットランド・ウェールズ・北アイルランドは別の法律が適用されます)。 Renters' Rights Act 2025 は段階的に施行が続いており、記載内容が最新でない可能性があります。 実際のトラブルにあたっては GOV.UK・Shelter の最新情報を確認し、深刻な事案(違法な立ち退き、 敷金の未返還、健康被害のある住環境など)では Citizens Advice、地元自治体の private housing team、または事務弁護士にご相談ください。