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    ジャスト・ロンドンは、ロンドンの深層に迫る力量も器量もない中途半端な存在ですが、旅の判断をほんの少し整える一文が紛れていれば、それだけで存在理由になります。

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    テート・ブリテン

    Tate Britain

    テート・ブリテン

    常設展 無料
    目安 1.5時間

    本日:10:00–18:00

    Millbank, London SW1P 4RG

    地図で見る公式サイト

    ターナーの光が霧を裂き、プレラファエライトの赤が夢を焦がす。英国美術の魂が画布に宿る。

    About

    どんなところか

    Tate Britainは、英国の最も重要な美術館の一つで、1500年代以降の英国美術を中心に約7万点以上の作品を所蔵しています。

    18世紀から現代までの絵画や彫刻、写真、インスタレーションなど多様なジャンルの英国芸術が展示されており、英国の美術史を体系的に学べる場です。

    特にウィリアム・ターナーの繊細かつ壮大な風景画は世界的にも有名で、その代表作は美術館の目玉となっています。

    また、ジョン・エヴァレット・ミレイの「オフィーリア」は、プリラファエライト派の作品の中でも特に人気が高く、英国ヴィクトリア朝時代の芸術を象徴しています。

    さらに、近年の現代美術や写真作品も積極的に収集しており、伝統と革新が融合したコレクションが魅力です。

    Tate Britainは英国文化の宝庫であり、訪れる人々に豊かな芸術体験を提供しています。

    Must See

    これだけは見て帰りたい

    テート・ブリテンを短時間で回るなら、まずこの3つ。 展示室の番号は改装で変わることがあるので、当日は館内の案内で確認してください。

    1. 1

      クロア・ギャラリー(ターナー)

      Clore Gallery

      ターナーが国に遺した「ターナー遺贈」を収める専用棟。油彩約300点に加え、スケッチブック300冊を含む膨大な水彩・素描が含まれます。晩年になるほど形が溶けて光だけが残っていく変化を、部屋を進みながら追えます。

    2. 2

      ミレイ《オフィーリア》

      1851–52年。ハムレットの一場面で、川面に浮かぶオフィーリアを描いた作品。周囲の植物は実際の川辺で写生されたもので、一種ごとに見分けがつくほど精密です。モデルは冷えた浴槽に何時間も横たわり続けたという逸話が残ります。

    3. 3

      ラファエル前派のコレクション

      ロセッティ、ホルマン・ハント、バーン=ジョーンズら。産業化するヴィクトリア朝への反発から、ラファエロ以前の細密さに帰ろうとした画家たちの作品がまとまって見られます。

    Route

    着いてからの歩き方

    テート・ブリテンに着いたら、この順に見ていくと迷いません。 展示室の番号や配置は改装で変わることがあるので、当日は館内の案内で確認してください。

    1. 到着

      川沿いの正面入口は閉鎖中

      ミルバンク側の階段を上る正面入口は、Clore Garden の建設のため2027年まで閉じています。現在の入口は建物の裏手、アターベリー通りに面したマントン入口です。テムズ川沿いを歩いてくると閉じた扉の前に出るので、建物を回り込む前提で時間を見てください。

    2. 見どころ

      ターナーの無料展示は世界最大

      ターナーの作品をこれだけまとめて無料で見られる場所は他にありません。晩年の、輪郭が光に溶けていく絵が並ぶ一角は、画集で見るのと実物とで印象が最も変わる部分です。時間が限られているなら、ここだけを目的に来ても十分に元が取れます。

    3. 見どころ

      英国美術を時代順にたどる本館

      本館の展示は年代順に並んでいて、テューダー朝の肖像画から現代までを一続きに歩けます。同じ国の絵が500年ぶん並ぶ構成は、テート・モダンにはないこの館だけの性格です。部屋番号ではなく年代を目印に進むと迷いません。

    4. コツ

      予約は要らない

      コレクションの入場は無料で、事前予約も不要です。10:00から18:00まで開き、最終入場は17:30。特別展だけは有料でチケットが要ります。ピムリコ駅から徒歩圏で、テート・モダンとはテムズ川のボートで結ばれています。

    5. 見落としやすい

      中央の螺旋階段そのものが見どころ

      館の中心にある円形ホールと螺旋階段は、展示品ではないため素通りされがちですが、1897年開館当時の建築がそのまま残っている部分です。上から見下ろすと床のモザイクの全体像が見えます。

    Artworks

    見どころ作品

    カルタゴ帝国の衰退

    カルタゴ帝国の衰退

    J.M.W. ターナー — 1817年(展示)

    **ターナーが「これを見て、私と勝負しろ」と言った絵です。** **まず、光を見てください。** 画面の中央奥、水平線のあたりに太陽があり、そこから金色の光が港全体へ広がっています。建物も、水面も、空も、その光に溶けている。**輪郭よりも光が先にある**——この描き方は当時、絵画としては異例でした。 **この光には、明確な手本があります。** 17世紀フランスの画家**クロード・ロラン**です。クロードは港の風景を、太陽を画面のほぼ中央に置いて描く様式を確立しました。イギリスの貴族はグランドツアーでその絵を買い集め、クロードは「風景画の理想」とされていた。ターナーは若い頃、クロードの絵を初めて見て**涙を流した**という逸話が残っています——「自分にはこれは描けない」と思ったからだそうです。 **そして、彼は生涯かけてそこに挑み続けました。** **この絵の主題。** カルタゴです。古代北アフリカの海洋帝国で、地中海の交易を支配し、ローマと三度にわたって戦い(**ポエニ戦争**)、最終的に完全に滅ぼされました。都市は破壊され、住民は殺されるか奴隷にされ、**国そのものが地上から消えました。** **画面の中で、それがどう描かれているか見てください。** 建物は壮麗で、港はまだ機能しているように見えます。しかし**太陽は沈みかけている。** 手前には所在なげな人物たちが配され、輝きの中にどこか物憂い気配が漂う。**滅びの前夜を、絶頂の風景として描く**——これがターナーの手口です。 **同時代の含意。** 1817年です。**ナポレオン戦争が終わった直後**で、イギリスは海洋帝国として絶頂にありました。**海で栄えた帝国が、戦争に勝ち続けた末に滅びる**——カルタゴの物語は、当時のイギリス人にとって他人事ではありませんでした。ターナーはこの主題を繰り返し描いており、対になる《**カルタゴ帝国を建設するディド**》(日の出の場面)がナショナル・ギャラリーにあります。**建設と衰退、日の出と日没**の対です。 **そして、ここが最大の見どころです。** ターナーは遺言で、**《カルタゴ帝国を建設するディド》をナショナル・ギャラリーのクロード・ロラン作品の隣に、永久に掛けること**を条件として国家に遺贈しました。 **つまり彼は、死後に自分の絵を師の隣に並べさせ、後世の人間に見比べさせようとしたのです。** 涙を流した若者が、半世紀かけて同じ壁に並ぶところまで来た。その条件は今も守られており、ナショナル・ギャラリーへ行けば実際に見比べられます。**テート・ブリテンでこの絵を見たら、ぜひトラファルガー広場まで足を延ばしてください。**

    海の漁師たち

    海の漁師たち

    J.M.W. ターナー — 1796年

    **ターナー21歳のデビュー作です。** 1796年、ロイヤル・アカデミー展に初めて出品した油彩画。ここから、イギリス美術史でもっとも有名な画家のキャリアが始まりました。 **まず、光源を数えてください。二つあります。** **一つ目は月。** 雲の切れ間から、冷たい銀色の光が海面に落ちています。 **二つ目は、漁船に吊るされたランタン。** こちらは温かい橙色で、船と漁師たちを内側から照らしている。 **この二つの光がぶつかる場所を見てください。** 冷たい月光と、温かい人工光。**性質の違う光を一枚に共存させる**——これは非常に難しい課題で、21歳の画家がこれをやってのけたことに、当時の批評家は驚きました。ターナーが生涯を通じて追い続ける「光の画家」としての出発点が、ここにあります。 **次に、波を見てください。** 手前の波は、うねりながら小舟を持ち上げています。船体は傾き、今にも横倒しになりそうです。**漁師たちは、この波の上で仕事をしている。** ロマンチックな夜景ではなく、生活の危険が描かれています。 **そして、背景の岩を見てください。** 画面奥に、鋭い岩の塊が影として立っています。これは**ニードルズ**——ワイト島沖に突き出た白亜の岩礁で、**難破の名所**として当時よく知られた場所でした。この岩がそこにあるということは、**この船は危険な海域にいる**ということです。無事に帰れる保証はありません。 **ターナーが学んだもの。** 暗闇の中で光源だけが照らし出す劇的な構成は、**レンブラント**をはじめとするオランダの巨匠から来ています。また、18世紀のイギリスでは**ジョゼフ・ライト・オブ・ダービー**(蝋燭や炉の光を描いた画家)や**ド・ルーテルブール**が夜景を流行させていました。ターナーは、その両方を吸収した上で出品しています。 **なぜこの絵が重要か。** 当時のロイヤル・アカデミーでは、油彩画こそが画家の格を決めるものでした。ターナーはそれまで水彩画家として評価されていましたが、**油彩でも勝負できることをこの一枚で証明**します。翌年から評価は急上昇し、**24歳で準会員、27歳で正会員**という異例の速さでアカデミーの階段を駆け上がりました。 **晩年の抽象的な光の絵しか知らない人ほど、この絵を見てください。** ここには、まだ細部を丁寧に描く若い画家がいます。**この几帳面さから出発して、あの《雨、蒸気、速度》へ辿り着いた**——その距離が分かると、ターナーという画家の全体像が見えてきます。

    自画像

    自画像

    J.M.W. ターナー — 1799年頃

    **この顔は、あなたの財布に入っているかもしれません。** 2020年に発行されたイギリスの**20ポンド紙幣**に、この自画像が使われています。ターナーは、自国の紙幣に肖像が載った数少ない画家です。 **まず、顔を見てください。** 24歳。若く、肌は滑らかで、目は大きく、こちらをまっすぐ見返しています。**そして、明らかに美化されています。** **同時代の記録によれば、実際のターナーはこうではありませんでした。** 背が低く(150センチ台後半)、鼻が大きく、身なりに無頓着で、話し方はぶっきらぼう。理髪店の息子として生まれた彼は、生涯コックニー(ロンドンの労働者階級の訛り)が抜けず、上流階級の集まりでしばしば浮いていました。**この自画像は、そうした自分ではなく、「画家として認められた自分」を描いています。** **服装を見てください。** 白い襟を高く立て、きちんとした上着を着ています。当時の紳士の装いです。**絵筆も、パレットも、絵具も描かれていません。** 職人ではなく、教養ある紳士としての自己提示です。 **なぜこの年に描いたか。** **1799年、24歳でロイヤル・アカデミーの準会員に選出されました。** これは当時の最年少記録級の若さです。 **準会員になると何が変わるか。** アカデミーの年次展覧会に、**審査なしで作品を出品できる**ようになります。それまでは毎年、選考委員に落とされる可能性があった。**自分の作品を、自分の判断で公衆の前に置ける立場**を手に入れた——画家としての独立の瞬間です。**この自画像は、その記念碑として描かれました。** **そして、光の当て方に注目してください。** 顔の左半分に光が当たり、右は影に沈んでいます。背景も暗い。**暗がりから顔が浮かび上がる**この構成は、レンブラントの自画像の伝統を踏まえたものです。24歳の画家が、自分をヨーロッパ絵画の系譜に接続しようとしている。 **その後の彼を知っていると、この顔はさらに面白くなります。** ターナーは生涯独身を通し、晩年は「ブース氏」という偽名でテムズ河畔に隠れ住み、極端な人嫌いになりました。死後、**約300点の油彩画と3万点近い素描・水彩**を国家に遺贈し、そのほとんどが今このテート・ブリテンにあります。 **この館でターナーの絵を見ることができるのは、彼自身がそう望んだからです。** その始まりに、この若い顔があります。

    オフィーリア

    オフィーリア

    ジョン・エヴァレット・ミレイ — 1851〜1852年

    **テート・ブリテンで、いちばん人が立ち止まる絵です。** そして、その理由は「美しいから」だけではありません。**この絵は、死につつある人を、これ以上ないほど美しく描いてしまった。** その落ち着かなさが、170年間、人を引き留めています。 **まず、顔を見てください。** 彼女はまだ生きています。目は開き、唇は薄く開いて、歌をうたっている最中です。手のひらは上を向いて水面に浮かび、抵抗も苦痛もない。『ハムレット』でオフィーリアは、恋人に拒まれ、その恋人に父を殺され、正気を失って川に落ちます。**彼女は自分が沈んでいることに気づいていません。** **次に、周りの植物を見てください。ここがこの絵の本領です。** 一本ずつ、種類が判別できるほど正確に描かれています。しかもそれぞれに意味がある。 - **柳**(画面左上に垂れる枝)——見捨てられた愛 - **イラクサ**——痛み - **ヒナギク**——無垢 - **パンジー**——報われぬ愛 - **ケシ**——死 - 首元の**スミレ**——貞節と若死に - 右手そばに浮かぶ**赤いポピー** **これは花束ではなく、文章です。** ヴィクトリア朝の人々は「花言葉」を共有しており、この絵を読むことができました。シェイクスピアの戯曲でオフィーリア自身が花を配りながら意味を口にする場面があり、ミレイはそれを絵の中で継続しています。 **そして、制作の方法を知ってください。ここが常軌を逸しています。** **背景**は、サリー州の**ホグスミル川**の岸辺で、実際の風景を見ながら描かれました。ミレイは1851年の夏から秋にかけて、**1日11時間、5か月間**、川辺に座り続けています。ハエに刺され、風に苦しめられ、地主に追い出されかけながら、葉の一枚ずつを写生しました。 **人物**は、その冬にロンドンのスタジオで描かれました。モデルは19歳の**エリザベス・シダル**。ミレイは古着屋で買った銀刺繍のドレスを彼女に着せ、**水を張ったバスタブに横たわらせて**ポーズを取らせています。水はランプで温められていましたが、**ある日そのランプが消え**、ミレイは絵に集中して気づきませんでした。シダルは冷水の中で我慢し続け、重い風邪をひきます。彼女の父はミレイに医療費を請求したと伝えられています。 **プリ・ラファエル派とは何か。** 1848年に若い画家たちが結成した集団で、ラファエロ以降のアカデミックな絵画を「型どおりで嘘くさい」と否定しました。彼らの方針は徹底していて——**すべてを実物から描く。理想化しない。細部を省略しない。白い下地の上に透明な絵具を重ね、色を鮮烈に発光させる。** この絵の草の緑が異様に鮮やかなのは、その技法によるものです。 **後日談も知られています。** モデルのエリザベス・シダルは後に画家・詩人のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティと結婚し、**1862年、32歳でアヘンチンキの過量摂取により亡くなりました。** この絵で溺れる女を演じた10年後のことです。

    雪嵐:ハンニバルとその軍隊のアルプス越え

    雪嵐:ハンニバルとその軍隊のアルプス越え

    J.M.W. ターナー — 1812年

    **主役はハンニバルではありません。渦です。** **まず、画面全体の形を見てください。** 巨大な黒い弧が、空を覆って右から左へ巻き込んでいます。雪雲です。その下で、光がわずかに差し込む隙間に、豆粒のような人間たちが散らばっている。**自然が画面の9割を占め、歴史上最大級の英雄が残りの1割に押し込められている。** **ハンニバルを探してください。見つかりません。** 紀元前218年、カルタゴの将軍ハンニバルは、象を連れてアルプスを越え、ローマ帝国の背後を突きました。西洋史上もっとも有名な軍事的偉業の一つです。ところがこの絵では、**遠景に象の影がぼんやり見えるだけ**で、ハンニバル本人は特定できません。歴史画でありながら、主人公が描かれていない。 **手前を見てください。** ここでは略奪が起きています。地元の山岳部族が、雪嵐で動けなくなった軍隊を襲い、兵士から物を奪い、殺している。英雄的な行軍の足元で、みじめな暴力が進行中です。**偉業の内側は、こういうものだった**とターナーは言っています。 **この絵のテーマ:自然は人間の野望を無効にする。** 軍隊も、象も、天才的な戦略も、雪嵐の前では意味を失う。ターナーが生涯繰り返した主題が、ここで初めて全面展開されました。 **展示方法にも工夫がありました。** ターナーは1812年のロイヤル・アカデミー展でこの絵を出品する際、**「目線の高さに掛けること」を指定**しています。見上げるのではなく、正面から。**鑑賞者が嵐の中に立たされる**ようにするためです。さらに彼は、自作の詩の一節を出品目録に添えました。 **そして、同時代の含意。** 1812年です。**ナポレオンがヨーロッパを席巻していた真っ最中**でした。アルプスを越えてイタリアへ侵攻したナポレオンは、しばしばハンニバルになぞらえられ、本人もそのイメージを利用していました(ダヴィッドの有名な《サン・ベルナール峠を越えるボナパルト》がその代表です)。 **ターナーが描いたのは、その裏返しです。** 英雄的なアルプス越えではなく、**自然に呑まれる軍隊**。しかもハンニバルは、この後アルプスを越えてイタリアに入りながら、**最終的にローマに勝てず、カルタゴは滅びました。** 「越えた先に勝利はない」という警告が、この主題には最初から埋め込まれています。**1812年のイギリス人がナポレオンに向けたメッセージ**として、これ以上ないものでした。 ちなみにその年の暮れ、ナポレオンはロシア遠征で**冬将軍**に敗れます。ターナーの絵は、予言のようになってしまいました。

    主要作品の一覧を見る
    Essentials

    基本情報

    大人料金
    無料
    子ども料金
    無料
    滞在時間の目安
    1.5時間
    写真撮影
    撮影自由
    荷物預かり
    無料
    最寄駅
    Pimlico(徒歩7分)
    最寄バス停
    Millbank(87)、John Islip Street(88・C10)(徒歩3分)
    音声ガイド
    あり / 英語・中国語・フランス語・ドイツ語・ヒンディー語・イタリア語・スペイン語
    カフェショップWi-Fi
    Trivia

    知っていると見え方が変わる話

    建っている場所はかつての刑務所

    ミルバンクのこの敷地には、1816年から1842年までミルバンク監獄がありました。受刑者に教育と職業訓練を施す改良主義的な施設で、のちにオーストラリアへの流刑者の集積地にもなりました。監獄の取り壊し後、1897年に美術館が開館しています。

    創設者は砂糖商人

    設立資金を出したヘンリー・テイトは、角砂糖の製法で財を成した実業家です。自身の絵画コレクション65点とともに建設費を寄付しました。テート・モダン、テート・リヴァプールなど「テート」を冠する館はすべてここから派生しています。

    Access

    場所

    Millbank, London SW1P 4RG

    ロンドン観光ガイド

    テート・ブリテンを観光ルートに組み込む

    周辺スポットとの回り方や、同じエリアで一緒に回れる見どころは観光ガイド側で紹介しています。

    みんなの口コミ

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