Snow Storm: Hannibal and his Army Crossing the Alps
J.M.W. ターナー, 1812年
テート・ブリテン Room 31

主役はハンニバルではありません。渦です。
まず、画面全体の形を見てください。 巨大な黒い弧が、空を覆って右から左へ巻き込んでいます。雪雲です。その下で、光がわずかに差し込む隙間に、豆粒のような人間たちが散らばっている。自然が画面の9割を占め、歴史上最大級の英雄が残りの1割に押し込められている。
ハンニバルを探してください。見つかりません。 紀元前218年、カルタゴの将軍ハンニバルは、象を連れてアルプスを越え、ローマ帝国の背後を突きました。西洋史上もっとも有名な軍事的偉業の一つです。ところがこの絵では、遠景に象の影がぼんやり見えるだけで、ハンニバル本人は特定できません。歴史画でありながら、主人公が描かれていない。
手前を見てください。 ここでは略奪が起きています。地元の山岳部族が、雪嵐で動けなくなった軍隊を襲い、兵士から物を奪い、殺している。英雄的な行軍の足元で、みじめな暴力が進行中です。偉業の内側は、こういうものだったとターナーは言っています。
この絵のテーマ:自然は人間の野望を無効にする。 軍隊も、象も、天才的な戦略も、雪嵐の前では意味を失う。ターナーが生涯繰り返した主題が、ここで初めて全面展開されました。
展示方法にも工夫がありました。 ターナーは1812年のロイヤル・アカデミー展でこの絵を出品する際、「目線の高さに掛けること」を指定しています。見上げるのではなく、正面から。鑑賞者が嵐の中に立たされるようにするためです。さらに彼は、自作の詩の一節を出品目録に添えました。
そして、同時代の含意。 1812年です。ナポレオンがヨーロッパを席巻していた真っ最中でした。アルプスを越えてイタリアへ侵攻したナポレオンは、しばしばハンニバルになぞらえられ、本人もそのイメージを利用していました(ダヴィッドの有名な《サン・ベルナール峠を越えるボナパルト》がその代表です)。
ターナーが描いたのは、その裏返しです。 英雄的なアルプス越えではなく、自然に呑まれる軍隊。しかもハンニバルは、この後アルプスを越えてイタリアに入りながら、最終的にローマに勝てず、カルタゴは滅びました。 「越えた先に勝利はない」という警告が、この主題には最初から埋め込まれています。1812年のイギリス人がナポレオンに向けたメッセージとして、これ以上ないものでした。
ちなみにその年の暮れ、ナポレオンはロシア遠征で冬将軍に敗れます。ターナーの絵は、予言のようになってしまいました。