2026年9月3日
イギリスの時計は毎年3月と10月に動く。この習慣を一人で発明し、19版まで小冊子を刷り続け、8年間議会に笑われ、法律になる14か月前に死んだ男がいる。ロンドンで家を建てていた建築業者、ウィリアム・ウィレット。しかも彼の案は「1時間」ではなく、4月の日曜の午前2時に20分ずつ4回、計80分ずらすというものだった。そして最後に彼の案を通したのは、健康でも余暇でもなく、戦争と石炭だった。

毎年3月末、イギリスの時計は1時間進む。ヒースローに着いた日がその境目だと、スマホは勝手に直るのにオーブンの時計だけ1時間ずれたままになる。この「サマータイム(British Summer Time)」を思いついたのは、天文学者でも政治家でもない。ロンドンのチェルシーやホーヴで高級住宅を建てていた、一人の建築業者だった。
「Willett built」——彼が売っていたのは、光の入る家だった
ウィリアム・ウィレットは1856年8月10日、サリー州ファーナムに生まれた。マリルボーン・グラマー・スクールを出て、建築業を営む父の会社に入る。親子が築いた評判は「Willett built」という一語に集約される。当時のロンドンで安く早く建てるならスタッコ(化粧漆喰)で外壁を覆うのが常道だったが、ウィレット親子はそれを嫌い、良質な煉瓦・タイル・ポートランド石を使い、間取りと造作に手をかけた家を建てた。仕事の場は、スローン・スクエア近くのカドガン伯爵領、サウス・ケンジントン、ブライトン隣のホーヴ、そして自身が住んだケント州チズルハースト。いまチェルシーの不動産広告に「Willett built」と書かれていたら、それは築130年の家に付く褒め言葉として通用する。
つまり彼は、生涯を通じて部屋にどう光を入れるかを職業にしていた人間である。ここが、この話の出発点になる。
1905年ごろ、彼はチズルハースト近郊のペッツ・ウッドを朝の乗馬で走っていた。夏の朝で、あたりはとうに明るい。ところが、大きな家々の鎧戸はどこも下りたままだった。1927年版の『英国人名事典(DNB)』補遺は、この場面を「習慣にしていたケントのコモンでの早駆けから戻る途中」と記している。
光は無料で降り注いでいるのに、誰も使っていない。そして夕方になり、人々が外に出たいと思うころには、日は落ちてガス灯と電灯の代金が発生する。彼が見たのは風景ではなく、在庫が毎朝捨てられている光景だった。
この思いつきを、ウィレットは2年かけて数字にまとめる。そして1907年7月、自費で一冊の小冊子を刷った。
4月の日曜、午前2時に20分ずつ、4回
現代の私たちが知るサマータイムは「春に1時間進め、秋に1時間戻す」だが、ウィレットの原案はまったく違う。
なぜ一気に1時間ではなく、20分刻みを4回なのか。ウィレットは、人体と生活習慣への衝撃を最小にしたかった。20分ならほとんどの人が気づかない。そして、この方式なら「短くなる日曜」は23時間40分にしかならない。彼の計算では、5月から8月にかけて毎日およそ80分、4月と9月にはおよそ45分の夕方の明るさが増える。
小冊子の書き出しは、いま読んでも彼が売り込みのうまい商売人だったことが分かる文章だ。
Everyone appreciates the long light evenings. Everyone laments their shrinkage as the days grow shorter... (誰もが長く明るい夕方をありがたく思う。誰もが、日が短くなるにつれてそれが縮んでいくのを嘆く……)
議論を組み立てる手つきも周到だった。「80分ぶん起きている時間に日光が増えるということは、80分ぶん眠る時間に暗さが増えるということだ」——つまり睡眠は損なわれない、という反論封じ。公園やオープンスペースの価値は倍になり、ライフル射撃の練習時間が取れ(日露戦争後の英国では国防教練の文脈で効く論点だった)、週あたりおよそ9時間20分の屋外運動時間が生まれる。これは「毎週まるまる一日の休日」に等しい、と彼は書いた。
節約額も出した。人口4,366万人に対し、人工照明を1時間あたり10分の1ペンスで計算し、反論を織り込んで3分の1を差し引いた上での数字が年間2,546,833ポンド。切りのいい「250万ポンド」ではなく末尾まで書いたところに、見積書を毎日書いていた建築業者の癖が出ている。
そして、実務家として最も効く一文がこれだった。
every train which now starts at 8 a.m. will continue to start at 8 a.m. (いま午前8時に発車している列車は、これからも午前8時に発車する)
時刻表は書き換えなくていい。ずれるのは4本の日曜の列車だけだ——鉄道会社を敵に回さないための、周到な先回りである。
締めくくりは、政治運動の呼びかけだった。「すべての男女、とりわけ若者は、この案を6か月試してみてもよいと考える有権者一人ひとりが、その意思を自分の選挙区の議員に伝えるよう働きかけてほしい」
ウィレットは1907年から1914年までのあいだに、この小冊子を英語版と各国語版あわせて19版まで刷り続けた。最後の第19版が出たのは1914年3月。彼が死ぬ、ちょうど1年前である。
1909年、委員会はわずか1票差で葬った
反応は嘲笑だった。時計技師ドナルド・ド・カールの『British Time』はこう記録している。「当初、ウィレットの案は嘲笑をもって迎えられた。新聞は——ごく少数の例外を除いて——声高に抗議した」。紙面に並んだ反論はこういう調子である。
Will the cows give their milk earlier because of Mr. Willett? (ウィレット氏のために、牛は早く乳を出してくれるのか)
Will the chickens know what time to go to bed? (鶏は何時に寝ればいいと分かるのか)
それでもウィレットは全国で集会を開き、支持者を集め続けた。議会にも届いた。1908年、自由党議員ロバート・ピアースが議員立法の抽選に当たり、最初の「デイライト・セイヴィング法案」を提出する。法案は第二読会を通過し、特別委員会に付託され、好意的な報告を受けた。1908年4月28日のHansardには、この特別委員会の構成(ハリソン=ブロードリー、ホルト、ハットン、ウォルター・ニュージェント卿、ピアース、ピリー大尉、フィリップス大佐、リチャーズ、エドワード・サスーン卿の9名)と、証人喚問の権限、定足数3名という淡々とした記録が残っている。
それでも、法案はその先の段階を越えられなかった。
1909年、T・W・ドブソンが法案を再提出する。特別委員会は24人の証人を呼び、ふたたび「きわめて好意的な報告」を出した。ところが政府任命の委員会が、「重大な異論があり、証言に矛盾がある」として退けた。後年、貴族院でランズダウン侯爵が振り返ったところによれば、1909年の委員会がこの案に反対した票差はわずか1票であり、しかもその理由は案の中身への異論ではなく「不便が生じうる」というものだった。
1911年、ピアースがまた出す。この年、ウィンストン・チャーチルはギルドホールで開かれた大規模な支持集会で演説している。そして——1916年まで、議会は何もしなかった。
チャーチルは後年(1934年4月28日付『Pictorial Weekly』)、当時の反対論を列挙している。読むとその奇妙さが分かる。
最も強硬だったのは農業団体で、時計・時計技師の業界も技術上の理由で反対した。天文学者や科学者の多数も反対側に回っている。皮肉なことに、ウィレット自身は王立天文学会のフェローだった。
ドイツが4月30日にやり、イギリスは5月21日にやった
ウィリアム・ウィレットは1915年3月4日、チズルハーストの自宅でインフルエンザにより死去した。58歳。8年間、19版の小冊子、全国での集会、3度の法案——そのすべてが空振りに終わったまま、彼は死んだ。
その14か月後、事態は一気に動く。ただし、動かしたのは彼の議論ではなかった。
1916年4月30日、第一次世界大戦のさなか、ドイツ帝国と同盟国オーストリア=ハンガリーが、国全体で時計を1時間進めた。世界初の全国規模のサマータイムである。目的は健康でも余暇でもなく、石炭の節約だった。
イギリスは追随した。1916年5月16日の貴族院第二読会でこの法案を動議したランズダウン侯爵は、ベンジャミン・フランクリンが1784年にパリ市民に宛てて書いた「蝋燭という煙たく不健康で途方もなく高価な光」の代わりに日光を使えという書簡を引用してみせた。フランス、オランダ、デンマークの動きにも触れた。政府の石炭消費委員会が「この措置をきわめて重視し、勧告している」ことも述べた。
チェルシーで家を建てていた男の名は、そこでは主役ではなかった。
貴族院の議論に立ったソールズベリー侯爵は「労働者階級が本当にこれを望んでいるのか」と疑い、恒久化には懐疑を示した。ヒンドリップ卿は果樹農家が鉄道の貨物ヤードを使えなくなると訴えた。それでも法案は無投票で下院を通過し、貴族院の第二読会も全会一致で通った。
国王裁可は1916年5月17日。貴族院で議論された翌日である。時計が実際に動いたのは5月21日日曜日の午前2時、終了は10月1日。8年間「重大な異論がある」と言われ続けたものが、数日で法律になった。
そしてイギリスの時計がドイツより後ろにずれていた期間は、4月30日から5月21日までのちょうど21日間——3週間だった。
なお、成立した法律はウィレットの案そのものではない。20分×4回の階段は消え、一気に1時間という、彼が「衝撃が大きすぎる」として避けた形になった。戦時の非常措置として始まったこの制度は、1922年と1925年のサマータイム法によって恒久化される。
わざと1時間ずれるように作られた記念碑が、ロンドンの南東にある
ウィレットは、チズルハーストのセント・ニコラス教会墓地に葬られている。
1923年、チャールズ・シャノンの描いた肖像画がチェルシー・タウンホールで除幕された。彼が家を建てた街である。
そして1927年5月、彼が朝の乗馬をしていたペッツ・ウッドの森が、公募による寄付金で買い上げられ、公衆に献納された。そこにコーンウォール産の花崗岩でできた記念碑が立てられた。G・W・ミラー設計の、日時計である。
北面には、この森が「サマータイムの倦むことなき唱道者(the untiring advocate of 'SUMMER TIME')」ウィリアム・ウィレットへの敬意として公募で買われたことが刻まれている。
南面に刻まれているのは、こうだ。
HORAS NON NUMERO NISI ÆSTIVAS SUMMER TIME ACT 1925
日時計の銘文には古来「Horas non numero nisi serenas(私は晴れた時間しか数えない)」という定型がある。曇っていれば影は出ないのだから、日時計は晴天だけを記録する——という洒落た決まり文句だ。ウィレットの記念碑は、その一語をserenas(晴れた)からaestivas(夏の)へ入れ替えた。「私は夏の時間しか数えない」。
そして、この日時計は物理的に間違うように作られている。文字盤は太陽の位置ではなく、グリニッジ標準時より1時間進んだ位置——つまりBSTを指すように据えられている。太陽を基準にする道具として作られた日時計が、太陽ではなく人間の決めた時刻に合わせて据え直されている。英国でこういう日時計はきわめて珍しい。ウィレットの生涯を一つの物体で言い表すとしたら、これ以上のものはないだろう。
1934年4月28日、チャーチルは『Pictorial Weekly』に「A Silent Toast to William Willett(ウィリアム・ウィレットへの、声に出さない乾杯)」と題した一文を寄せた。サマータイムが毎年この国の人々に160〜170時間の明るい余暇を与えていること、自分が最初期の支持者の一人で「強力な利害と、根深く執拗な偏見が結束して反対していた時期に、議会で声と票を投じた」ことを記したうえで、彼はこう結んでいる。
Let us, then, as we put forward our clocks for another summer, drink a silent toast to the memory of William Willett, who spared neither labour nor money over a long period of his life in his advocacy of this great reform. (であるから、また夏に向けて時計を進めるとき、われわれは声に出さない乾杯を捧げよう——生涯の長きにわたり、この偉大な改革を訴えるために労力も金銭も惜しまなかった、ウィリアム・ウィレットの記憶に)
現在の見どころ——ペッツ・ウッド(ロンドン南東、ブロムリー区。ナショナル・トラスト管理で、チャリング・クロスから電車で30分ほど)には記念日時計と「ウィレット・ウェイ」という通りがあり、駅前のパブは「ザ・デイライト・イン」という。チズルハーストのセント・ニコラス教会墓地の南東の隅に彼の墓がある。もっと手軽なのは、スローン・スクエア周辺を歩くことだ。あのあたりの重厚な赤煉瓦の集合住宅を見上げているとき、あなたは時計を動かした男の本業のほうを見ている。
ちなみにウィレットの玄孫(やしゃご)にあたるのが、コールドプレイのクリス・マーティンである。バンドの代表曲の一つが「Clocks」であることについて、本人の説明は特にない。
← 前の記事
東インド会社は1874年6月1日、誰も裁かれないまま消えた——株主は100ポンドにつき198ポンドを現金で受け取った 第3回
次の記事 →
ロンドン地下鉄の路線図は失業中の製図工が描いた——報酬は10ギニー、名前が刷られたのは10年後だった
この記事を読んだ感想や、関連して知っていることがあれば教えてください。
まだコメントはありません。最初の投稿をお待ちしています。