2026年9月18日
1935年7月30日、たばこ1箱と同じ6ペンスの本が10点まとめて売り出された。書店の多くは置くことを拒み、同業者は「必ず潰れる」と見て版権を安く手放した。翌春にはジョージ・オーウェルが「他の出版社に良識があるなら、結託してこれを潰すべきだ」と書いている。それでも10か月で100万冊が刷られた。世界の読書のかたちを変えたペンギン・ブックスが、どうやって最初の冬を越したのかを追う。
いま私たちが当たり前に手に取るペーパーバックは、ある男が駅の売店で読む本を見つけられなかった、という話から始まったことになっている。その話はたぶん半分は作り話だ。だが残りの半分——書店に断られ、仕入れ担当者の妻に救われ、教会の地下室から出荷された最初の1年——のほうが、はるかに面白い。
1934年、アレン・レイン32歳
話はいつもこう始まる。1934年、アレン・レインはデヴォンでアガサ・クリスティの家に招かれた週末を終え、エクセター・セント・デイヴィッズ駅のホームに立っていた。ロンドンまでの長い汽車で読むものを売店で探したが、棚にあるのは大衆雑誌と、ヴィクトリア朝小説の焼き直しばかりだった。彼は手ぶらで汽車に乗り、こう考えた——ちゃんとした本を、誰でも買える値段で、こういう場所に置けないものか。
このとき彼は32歳。1902年にブリストルで生まれ、本名をアレン・レイン・ウィリアムズといった。16歳だった1919年、遠縁にあたる出版社ボドリー・ヘッドの創業者ジョン・レインのもとに見習いとして入り、その家名を絶やさないために一家そろって姓をウィリアムズからレインへ改めている。1925年にジョン・レインが死ぬと、二十代前半で経営の側に回った。つまり彼は、駅で立ち往生したただの読書家ではなく、出版社の内側を知り尽くした若い経営者だった。
値段の感覚を押さえておきたい。1930年代の英国で、新刊の小説はおおむね7シリング6ペンス。レインが構想した6ペンスは、その15分の1である。同じ6ペンスで買えたのは、たばこ1箱だった。本は「持ち物」であって「消耗品」ではない、という常識に真正面からぶつかる値付けだ。
そしてここに、この話のいちばん皮肉な符合がある。レインが週末を過ごしたクリスティの、デビュー作『スタイルズ荘の怪事件』を1921年に世に出したのは、ほかならぬボドリー・ヘッドだった。その契約は、最初の2,000部まで印税ゼロ、超えた分にようやく10パーセント、しかも次の5冊まで同社に縛るという苛烈なもので、クリスティがこの処女作から得たのは25ポンドにすぎない。その1冊が、11年後にペンギン創刊10点の6番目として、6ペンスの紙表紙で刷り直されることになる。
ただし——駅の売店の逸話そのものは、レイン自身が生涯にわたって語り続けたものだ。書籍史家スチュアート・ケルズは、この筋書きに冷ややかな目を向けている。「アレンは、自分を出版の天才に見せるためのキャンペーンを張っていた。実際の彼は、むしろビジネスの天才だった」。ケルズによれば、レインはとりたてて文学的な男ですらなく、愛読書はダイエット指南書だったという。
作り話を疑う理由は、もうひとつある。安いペーパーバックは、このとき既に存在していたのだ。
ハンブルク、1932年——ペンギンが借りてきた設計図
1932年、ハンブルクにアルバトロス・ブックス(Albatross Books)という出版社ができた。創業者はジョン・ホルロイド=リース、マックス・クリスティアン・ヴェグナー、そしてクルト・エノックの3人。英語で書かれた本を大陸ヨーロッパで安く売る、ペーパーバック専門の会社である。
この会社がやったことを並べてみると、ぞっとするほど見覚えがある。
判型、絵のない表紙、ジャンル別の色分け、鳥の名前。ペンギン・ブックスが1935年に世に問うた「新しさ」は、その3年前にハンブルクでほぼ出そろっていた。レインはアルバトロスのやり方を知ったうえで、それを英国の国内市場に持ち込んだのである。
この縁は後日談まである。ナチスの台頭でアルバトロスは行き詰まり、ユダヤ系だったエノックはドイツを脱出してアメリカに渡った。1940年代、レインはそのエノックを、ペンギンの米国法人を率いる人物として迎え入れている。借りてきた設計図の作者を、そのまま雇ったわけだ。
では、レインの発明は何だったのか。本の形ではない。本の売り場である。アルバトロスの安い本は、旅行者向けに書店や駅売店で売られる「大陸もの」にとどまった。レインが狙ったのは、本屋に足を踏み入れる習慣のない人びとの、生活動線のほうだった。そしてそれこそが、英国の出版業界が「絶対に失敗する」と断言した部分だった。
17,000部の壁と、ジョナサン・ケープの400ポンド
まず社内が反対した。ボドリー・ヘッドの取締役会は、6ペンスという値付けに勝ち目を見出さなかった。そこでペンギンは、当面ボドリー・ヘッドの一インプリントとして出発し、経済的な責任はレインと弟のリチャード、ジョンの三兄弟が自分たちで背負うことになる。会社として独立するのは、創刊の翌1936年だ。
ところが、この「どうせ潰れる」という空気が、思わぬ形でレインを助けた。再版権が安く買えたのである。ジョナサン・ケープは自社タイトルの再版を認めた一人だが、ケープの伝記を書いたマイケル・S・ハワードによれば、彼の公の見立ては「レイン兄弟は確実に失敗する」であり、その理由づけがふるっている——潰れる前に400ポンドいただいておこうと思った、というのだ。援助ではなく、見切り売りだった。
数字を見ると、悲観にも理がある。6ペンスの本は、1冊あたりの利幅がほとんどない。ペンギンが損益分岐に達するには、1点につき17,000部を売らなければならなかった。創刊は10点同時だから、合計17万部である。当時の英国の書店には、その量をさばく棚も、さばこうという動機もなかった。1冊売っても、同じ手間で7シリング6ペンスの新刊を売ったほうがはるかに儲かるからだ。
結果として、多くの書店はペンギンを置くことを拒んだ。創刊にあたっての最大の問題は、本が作れるかどうかではなく、本を置いてくれる場所があるかどうかになった。
レインは、本屋ではないところへ売りに行くしかなかった。
ウールワース、36,000冊の発注書
レインが向かったのは、メイフェアのニュー・ボンド・ストリート・ハウスにあった、F・W・ウールワースの本部である。英国じゅうの高街(ハイストリート)に約600店を構える、日用品の安売りチェーンだ。応対したのは、ファンシー・グッズ担当のバイヤー、E・クリフォード・プレスコット。物静かなアメリカ人で、書籍も彼の管轄に入っていた。
プレスコットは乗り気ではなかった。紙表紙の安い本など、自分の売り場に馴染むとは思えない。商談が傾きかけたところへ、彼の妻が部屋に入ってきた。机の上に並べられた見本のなかにアガサ・クリスティを見つけた彼女は、6ペンスでこういう本が買えるなら週に何冊も買う、と言ったという。プレスコットは態度を変え、その場で36,000冊の発注書に署名した。
ウールワース側の記録によれば、この初回発注ぶんはセント・パンクラス貨物駅の倉庫を経由して全国の店舗へ配られ、夏の終わりまでに各支店からの追加注文が積み上がって、最終的な販売冊数は63,000冊を超えた。ペンギンの創刊時の発注としてよく引かれる「63,500冊」という数字は、この追加ぶんまで含んだ合計に近い。いずれにせよ、この一件が企画の採算を一気に確定させ、ペンギンが独立した会社として立つことを可能にした。
重要なのは冊数そのものより、売り場の性質だ。ウールワースに来る客は、本を買いに来たわけではない。鍋やボタンや菓子を買いに来て、そのついでに6ペンスのヘミングウェイをかごに入れた。書店の外に本の棚を作るというレインの賭けは、書店に拒まれたからこそ、最も純粋なかたちで検証されたのである。
「本を読む人が本屋へ行く」から「本が人のいるところへ行く」へ。ペーパーバック革命と呼ばれるものの中身は、判型でも紙質でもなく、この一行だった。
ロンドン動物園と、ソーンの納骨堂

レインが社名に求めた条件は、「品位があって、それでいて軽い(dignified but flippant)」だった。答えを出したのは秘書のジョーン・コールズで、彼女が口にした「ペンギン」を、三兄弟はその場で採用した。
決まった瞬間、21歳の事務員エドワード・ヤングがロンドン動物園へ送り出される。彼はその日、閉園までペンギンをあらゆる角度から描き続けた。デザイン史家フィル・ベインズによれば、このときのスケッチが、世界でもっとも有名なロゴのひとつの原型になった。ヤングの仕事はロゴだけではない。表紙を上下に走る三本の横帯——「トリビューン」と呼ばれる、あの構成もヤングの手による。彼はボドリー・ヘッドでダストジャケットを手がけており、その素質を見込まれていた。
帯の色は中身を示す記号だった。オレンジは小説、緑は犯罪小説、濃紺は伝記。のちにセリーズ(濃いピンク)が旅行と冒険、赤が戯曲というように増えていく。アルバトロスから受け継いだ約束事が、英国風に翻訳された瞬間である。
1935年7月30日に出た創刊10点は、次のとおり。
すべて既刊の再版であり、新作は一冊もない。リスクを取るべきは中身ではなく値段と流通だ、という判断がここにも表れている。
そして倉庫である。創業間もないペンギンには、まともな物流拠点を借りる金がなかった。彼らが使ったのは、メリルボーン・ロードに建つホーリー・トリニティ教会の地下納骨堂だった。設計はジョン・ソーン、1824年から28年にかけて建てられた、国教会の由緒ある建物である。路上から地下へ本を運び込むために使われたのは、遊園地のスライドだったと伝わる。棺を納めるための空間に、6ペンスの小説が滑り落ちていったわけだ。
この居候は長く続かなかった。1937年、英国国教会の伝道団体がこの建物に入ることになり、ペンギンは退去する。移転先はミドルセックス州ハーモンズワース。のちにヒースロー空港が隣にできる、当時はただの野原だった土地である。
「読者としては拍手する。書き手としては呪う」
1936年3月、創刊からわずか10か月で、ペンギンの累計印刷部数は100万冊に達した。
その同じ月、ジョージ・オーウェルが『ニュー・イングリッシュ・ウィークリー』(1936年3月5日号)に、第3期配本の書評を書いている。これがまた見事な文章で、しかも徹頭徹尾ねじれている。
ペンギン・ブックスは6ペンスとしては見事な出来だ——他の出版社に少しでも良識があるなら、結託してこれを潰すべきだと思えるほどに見事だ。
オーウェルの論法はこうだ。読者にとって安い本はありがたい。だが同じ金額の本が15分の1の値段で手に入るようになれば、読者は1冊の新刊に払っていた金を、そのまま15冊の再版に回すだけで、出版社も、活字を組む植字工も、印税で食う著者も、棚を貸す書店も痩せていく。そして彼は、あの一文で締めくくる。読者としての私はペンギン・ブックスに拍手する。書き手としての私は、これを呪う。
ついでに言えば、オーウェルはこの書評で手柄をボドリー・ヘッドとジョン・レインに帰しており、アレン・レインの名前は一度も出てこない。創業から7か月あまりの時点で、「ペンギンを作った男」は、まだ誰でもなかったのである。
そのアレン・レインは、走り続けた。
レインは1952年にナイトに叙せられた。1961年にペンギンが株式を公開したとき、申し込みは発行株数の150倍に達し、当時のロンドン証券取引所の記録になった。駅の売店で立ち往生した(ことになっている)男は、1970年7月7日に67歳で世を去る。
最後にひとつ。2023年、エクセター・セント・デイヴィッズ駅の切符売り場に、ペンギンの本の自動販売機が置かれた。1937年にチャリング・クロス・ロードで失敗したあの仕掛けが、86年後、話の出発点になった駅に据えられたことになる。神話であれ事実であれ、ひとつの逸話がこれだけ長く物を動かし続けるなら、それはもう歴史の一部と呼んでいいのだろう。
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