fancy
「Fancy a pint?」は「一杯どう?」じゃない。「断ってくれて全然いいけど」までを一語で言っている。しかもこの動詞、目的語が人になると意味が変わる。同僚に軽い気持ちで使うと、月曜には話が広まってる。

ロンドンで最初に入った職場の、金曜17時すぎ。隣のイギリス人がパソコンを閉じながら、こっちを見もせずに言った。「Fancy a pint?」
当時の僕の中の fancy は「高級な、装飾的な」だった。fancy restaurant の fancy。だから真顔で考えてしまった。高級なビール? どこか気取った店にでも行くのか? 返事に3秒かかった。たった3秒。彼は「Right, another time then」と言って、もう出ていった。
あれは誘いだった。そして、あの3秒はイギリス英語の文法上、完全に「ノー」だった。
聞いているのは欲求じゃなくて気分
「Fancy a pint?」を「一杯どう?」と訳すのは合ってる。合ってるんだけど、半分足りない。fancy が聞いているのは「飲みたいか」じゃなくて「気が向くか」だ。欲求じゃなく気分。ここが全部。
Fancy a pint? — 一杯どうFancy a curry? — カレー行かないFancy coming along on Saturday? — 土曜来る?Fancy it? — どう?主語も助動詞も落ちる。落ちるほど軽い。
Do you want to come? だと相手の欲求を正面から聞くことになるので、断るのに理由がいる。fancy はそこを避けて、「今日は気分じゃない」という無料の逃げ道を、誘う側が先に相手へ渡してから誘う。要するに保険。日本語の「もしよかったら」「今度ごはんでも」とほぼ同じ仕事をしている。誘う前に断られる準備を済ませているという点では、合コン帰りの「また今度みんなで」と構造が変わらない。
だから返事も軽くていい。Yeah, go on then(じゃあ行くか)か、Nah, I'm knackered(いや、無理、疲れた)。Nah 一発で終わる。一番まずいのは黙ることで、3秒の沈黙はこの世界では返事としてカウントされる。
根っこは fantasy。だから全部つながっている
ここからが地雷。fancy は目的語が人になると、意味が恋愛にスライドする。
I fancy a coffee — コーヒー飲みたいI fancy Emma — エマに惚れてる同じ動詞、同じ形。間にヒントは一切ない。知人の日本人が職場の飲みで同僚の話を振られ、「いい人だと思う」のつもりで Yeah, I fancy him と答えたことがある。月曜には社内で交際が成立していたらしい。訂正して回るほうが恥ずかしい、というやつだ。
なんでこんなに散らかっているかというと、fancy はもともと fantasy が縮んだ形だから。15世紀半ばに fantasy が短縮されて fancy になり、意味は「傾き・好み」あたりに落ち着いた。妄想が根っこにあるので、「気が向く」も「惚れる」も同じ枝から生えている。
そして fancy dress。これは「高級な服」ではなく「妄想の衣装」、つまり仮装だ(OEDの初出は1770年、ファニー・バーニー)。招待状の fancy dress を正装と読んでスーツで行くと、会場は全員バナナとスーパーマンで、あなただけが葬式帰りの人になる。ついでに Fancy that! は「へえ、まさか」。1813年ごろから使われている。
一語で「一杯どう」「惚れてる」「仮装」を全部回している。イギリス人は言葉に几帳面、という前提はそろそろ疑っていい。