British English2026年8月11日

    cheers

    「cheers」を乾杯だと思ってる人、ロンドンで一日20回スルーしてる

    イギリスでの cheers は、9割がた乾杯じゃない。「ありがと」「じゃあね」「はいはい」を全部ひとりで担当している過労気味の単語で、これを乾杯専用だと思っていると、相手の「ありがとう」を一日中スルーし続けることになる。

    ロンドンに来て最初の週、テスコでお釣りを受け取ったら店員に「チアーズ」と言われた。

    手には何も持っていない。乾杯する要素がどこにもない。私は0.5秒くらい「今なにか祝われたか?」と考えて、その隙にレジは次の客に進んでいた。後ろのおばあちゃんに軽く押し出される形でどいた記憶がある。

    あれから十数年、私は一日に何回か cheers と言う側になった。乾杯の場面はそのうちほぼゼロ。

    01

    乾杯の意味で使われるほうが、むしろ少数派

    ありがとう・じゃあね・了解を、一語で全部やる

    cheers の正体は、イギリス版の「どうも」。日本語の「どうも」がありがとうにもこんにちはにもすみませんにもなる、あの守備範囲の広さとほぼ同じ構造だと思ってもらえばいい。

    実際に飛んでくる場面はこのあたり。

    • ありがとう — お釣りを渡される、ドアを押さえてもらう、パブでグラスを受け取る
    • じゃあね — 会話を切り上げるとき、店を出るとき
    • 了解 — 頼み事への軽い返事。日本語の「あー、はいはい」の温度
    • メールの結びBest regards の代わりに末尾へ一言 Cheers,

    肝心の乾杯? もちろん使う。使うけど体感で全体の1〜2割くらい。私の場合、平日にオフィスと店で聞く cheers が十数回あって、グラスが絡むのは週末に一回あるかどうか。平日の cheers はだいたい事務手続きです。

    つまり乾杯の言葉としてだけ覚えていると、残りの8割を丸ごと聞き逃す。会話が成立してるつもりで、相手の「ありがとう」に一度も反応できていないという、地味に切ない事故が起きる。私は最初の一年、たぶん数百回やらかしている。

    02

    元は「顔」だった。乾杯になったのは1919年

    800年かけて、顔つき→機嫌→喜び→乾杯と流れ着いた

    語源をたどると笑える。cheer は1200年ごろの英語で**「顔・表情」**のことだった。古フランス語 chiere(顔つき)を経由して、遡ると後期ラテン語の cara、つまり「顔」。

    変遷がこれ。

    • 1200年ごろ — 「顔、表情」
    • 13世紀半ば — 表情に出る「気分・機嫌」へ
    • 1400年ごろ — 気分の中でも「喜び・上機嫌」が優勢に
    • 1720年ごろ — 「声援」の意味が記録される
    • 1919年 — ようやく乾杯の cheers が登場

    最後に注目してほしい。乾杯の cheers は第一次大戦直後に生まれた、100年ちょっとしか歴史のない用法。パブの壁の黒ずんだ木目と一緒に中世から続いてます、みたいな顔をしているが、実年齢は大正時代と同期です。パブの建物のほうが余裕で年上、というケースはざらにある。

    おまけにこの単語、現代のビジネスメールでも地味に優秀。35万通を分析した Boomerang の調査では Cheers で締めたメールの返信率が54.4%で、全体平均の47.5%を上回っている。800年前は「顔」だった言葉が、いま返信率を上げている。

    明日もまた1語、増えます。

    イギリス英語の沼は、思ったより深い。

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