cheers
「cheers」を乾杯だと思ってる人、ロンドンで一日20回スルーしてる
イギリスでの cheers は、9割がた乾杯じゃない。「ありがと」「じゃあね」「はいはい」を全部ひとりで担当している過労気味の単語で、これを乾杯専用だと思っていると、相手の「ありがとう」を一日中スルーし続けることになる。
ロンドンに来て最初の週、テスコでお釣りを受け取ったら店員に「チアーズ」と言われた。
手には何も持っていない。乾杯する要素がどこにもない。私は0.5秒くらい「今なにか祝われたか?」と考えて、その隙にレジは次の客に進んでいた。後ろのおばあちゃんに軽く押し出される形でどいた記憶がある。
あれから十数年、私は一日に何回か cheers と言う側になった。乾杯の場面はそのうちほぼゼロ。
乾杯の意味で使われるほうが、むしろ少数派
ありがとう・じゃあね・了解を、一語で全部やる
cheers の正体は、イギリス版の「どうも」。日本語の「どうも」がありがとうにもこんにちはにもすみませんにもなる、あの守備範囲の広さとほぼ同じ構造だと思ってもらえばいい。
実際に飛んでくる場面はこのあたり。
- ありがとう — お釣りを渡される、ドアを押さえてもらう、パブでグラスを受け取る
- じゃあね — 会話を切り上げるとき、店を出るとき
- 了解 — 頼み事への軽い返事。日本語の「あー、はいはい」の温度
- メールの結び —
Best regardsの代わりに末尾へ一言Cheers,
肝心の乾杯? もちろん使う。使うけど体感で全体の1〜2割くらい。私の場合、平日にオフィスと店で聞く cheers が十数回あって、グラスが絡むのは週末に一回あるかどうか。平日の cheers はだいたい事務手続きです。
つまり乾杯の言葉としてだけ覚えていると、残りの8割を丸ごと聞き逃す。会話が成立してるつもりで、相手の「ありがとう」に一度も反応できていないという、地味に切ない事故が起きる。私は最初の一年、たぶん数百回やらかしている。
元は「顔」だった。乾杯になったのは1919年
800年かけて、顔つき→機嫌→喜び→乾杯と流れ着いた
語源をたどると笑える。cheer は1200年ごろの英語で**「顔・表情」**のことだった。古フランス語 chiere(顔つき)を経由して、遡ると後期ラテン語の cara、つまり「顔」。
変遷がこれ。
- 1200年ごろ — 「顔、表情」
- 13世紀半ば — 表情に出る「気分・機嫌」へ
- 1400年ごろ — 気分の中でも「喜び・上機嫌」が優勢に
- 1720年ごろ — 「声援」の意味が記録される
- 1919年 — ようやく乾杯の cheers が登場
最後に注目してほしい。乾杯の cheers は第一次大戦直後に生まれた、100年ちょっとしか歴史のない用法。パブの壁の黒ずんだ木目と一緒に中世から続いてます、みたいな顔をしているが、実年齢は大正時代と同期です。パブの建物のほうが余裕で年上、というケースはざらにある。
おまけにこの単語、現代のビジネスメールでも地味に優秀。35万通を分析した Boomerang の調査では Cheers で締めたメールの返信率が54.4%で、全体平均の47.5%を上回っている。800年前は「顔」だった言葉が、いま返信率を上げている。