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    3. なぜ「世界一有名な時計」ビッグベンは、1枚の硬貨で調整されているのか

    2026年8月5日

    なぜ「世界一有名な時計」ビッグベンは、1枚の硬貨で調整されているのか

    ロンドンのエリザベス・タワーで時を刻み続けるビッグベン。その正確さの裏側には、コンピューターどころか電気すら使わない、驚くほど原始的な仕掛けがある——振り子の上に載せられた、たった1枚の古い硬貨だ。19世紀の弁護士が発明した機構と、150年以上変わらない「硬貨調整」という職人技を追う。

    なぜ「世界一有名な時計」ビッグベンは、1枚の硬貨で調整されているのか

    1859年に時を刻み始めて以来、ビッグベンは一度も「デジタル化」されていない。時刻を狂わせる風、気温、経年劣化と戦っているのは、今も昔と同じ、振り子の上の硬貨1枚である。

    天文台長が突きつけた「不可能」な注文

    1852年、誰も引き受けたがらなかった仕事

    ビッグベンの物語は、時計職人ではなく王立天文台長ジョージ・エアリーの強気な仕様書から始まる。エアリーは新しい国会議事堂の大時計に対し、「毎日の誤差は1秒以内、しかもその結果を正午にグリニッジ天文台へ電信で報告できること」という、当時の時計技術の常識を超えた精度を要求した。

    当代一流の時計職人たちはこの注文に及び腰になった。屋外の巨大な塔の上、風雨や気温の変化、さらには針にとまる鳩や積もった雪の重みまで受けながら、そこまでの精度を出すのは現実的でないと考えられていたからだ。

    結局この難題に挑んだのは、プロの時計職人ではなく、エドマンド・ベケット・デニソンという法廷弁護士だった。時計仕掛けを趣味として研究していたアマチュアの彼が、後に世界で最も有名な時計の心臓部を設計することになる。

    振り子を「外の世界」から切り離す発明

    二重三脚重力脱進機という奇妙な名前の機構

    デニソンが到達した答えが「二重三脚重力脱進機(double three-legged gravity escapement)」である。名前は難解だが、発想はシンプルだ。

    通常の時計は、歯車の力が直接振り子(または「てんぷ」)を押して動かす。しかしこの方式では、歯車側の摩擦や動力のムラがそのまま振り子の揺れに伝わってしまい、精度の足を引っ張る。デニソンの機構は、歯車の力を振り子に直接伝えるのではなく、まず小さな「脚」を持ち上げるためだけに使い、その脚が重力で振り子の上に落ちる際の一定の衝撃だけを振り子に与える。

    つまり振り子は、歯車の状態がどうであれ、常に同じ大きさの「重力による一撃」しか受け取らない。外の駆動系で何が起きようと、振り子の動きにはほとんど影響しない——これにより、振り子は事実上、機械の残りの部分から切り離された、ほぼ独立した時間の基準として振る舞えるようになった。この設計は今日でも精密な塔時計に応用される、時計史上の画期的な発明とされている。

    亜鉛と鋼の二重構造——気温と戦う振り子の棒

    金属は伸び縮みする、という厄介な事実

    精度を狂わせるもう一つの敵は気温だ。金属でできた振り子の棒は、夏の暑さで伸び、冬の寒さで縮む。棒がわずかでも長くなれば振り子の周期は遅くなり、時計は遅れる。

    これに対処するため、ビッグベンの振り子の棒は、鋼のパイプの中に亜鉛のパイプを入れ子状に組み込んだ、二重構造になっている。鋼と亜鉛は熱による膨張率が異なるため、気温が上がって鋼が伸びようとすると、内側の亜鉛パイプがそれを打ち消す方向に動き、振り子の実効的な長さをほぼ一定に保つよう設計されている。

    ただしこの仕組みは万能ではない。振り子の錘(重さ約203kg)を支え続ける亜鉛は、長年にわたる荷重でわずかに変形(クリープ)していく。2017年から2021年にかけての大規模改修でエリザベス・タワーが「沈黙」した際には、この亜鉛パイプが自由に動くかどうかの点検・調整も行われている。

    1枚で1日0.4秒——硬貨という名の微調整ダイヤル

    「ペニーを足す」という、世界一有名な時計の日常保守

    そして本題の硬貨である。振り子の錘の上部には小さな棚(シェルフ)があり、そこに1971年の通貨制度改革(デシマライゼーション)以前の「旧ペニー硬貨」が数枚、積み重ねて置かれている。

    原理は単純明快だ。振り子の周期は、支点から重心までの実効的な長さで決まる。錘の上に硬貨を1枚載せると、振り子全体の重心がほんのわずかに——コンマ数ミリ単位で——持ち上がる。重心が支点に近づくということは、振り子の実効的な長さが短くなったのと同じ効果を生み、周期がわずかに速くなる。

    旧ペニー硬貨1枚(重さ約9.4グラム)を足すと、時計は24時間あたり約0.4秒進むようになる。逆に硬貨を1枚取り除けば、その分だけ遅くなる。時計の管理者「キーパー・オブ・ザ・グレート・クロック」は、毎週決まったタイミングで機械室に上がり、直近の運針記録と睨めっこしながら、硬貨を足すか、引くか、そのままにするかを判断する。1859年の稼働開始から今日まで、根本的にはこのアナログな「硬貨1枚」の調整だけで、ビッグベンは週2秒以内という高精度を保ち続けている。

    廃止された硬貨が、なぜ今も現役なのか

    決済手段としては死に、調整ウェイトとして生き残った旧ペニー

    興味深いのは、この調整に使われる硬貨が「今も流通している現行のペニー」ではなく、1971年に廃止された旧ペニー硬貨だという点だ。イギリスは1971年2月15日、それまでの「1ポンド=20シリング=240ペニー」という複雑な貨幣制度を廃止し、「1ポンド=100ペンス」の10進法(デシマル)制度に切り替えた。

    通貨としての役目を終えた旧ペニーだが、ビッグベンの中では退場することなく、むしろ規格が変わらない「基準おもり」として都合よく使われ続けている。もし現行の1ペンス硬貨(旧ペニーとはサイズも重さも異なる)に置き換えれば、1枚あたりの調整量が変わってしまい、150年分の経験則が崩れてしまうからだ。

    こうしてビッグベンの機械室では、市場からとうに姿を消した硬貨が、今日も静かに現役の「精密機械部品」として働き続けている。電子制御も、モーターも使わない。19世紀の弁護士が考案した重力任せの脱進機と、財布からは追い出された硬貨1枚——この組み合わせが、今なお世界でもっとも有名な時計の正確さを支えているのである。

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