2026年8月29日
18世紀のイギリスに秘密投票はなかった。誰がどの候補に入れたかは印刷され、書店で売られた。だから1780年のウェストミンスター選挙で、チャールズ街19番地の食料品店主が誰に投票したかを、いまも読むことができる。店主の名はイグナチウス・サンチョ。大西洋を渡る奴隷船の上で生まれ、字を教えてもらえずに育ち、痛風で歩けなくなって店を開いた男だった。

「英国史上初の黒人有権者」という枕詞とともに紹介されることの多い人物だが、この記事はその枕詞が崩れるところまで書く。崩れ方そのものが、この国の記録の作られ方を教えてくれるからだ。
先に結論だけ言っておくと、サンチョに投票資格を与えたのは肌の色でも、才能でも、ゲインズバラが肖像を描いたことでもない。救貧税を払っていたこと、ただそれだけである。
1729年頃、大西洋のどこか
イグナチウス・サンチョは1729年ごろ、大西洋を渡る奴隷船の船上で生まれたとされる。母は間もなく死に、父は自ら命を絶ったと伝えられる。カリブで洗礼を受けて「イグナチウス」の名を与えられ、二歳のときにイングランドへ運ばれて、ロンドン南東部グリニッジに住む三人姉妹のもとへ「贈られた」。姓の「サンチョ」は、その姉妹が『ドン・キホーテ』の従者サンチョ・パンサに似ていると言って付けたものだという。
この三人姉妹について、ロンドン博物館の解説は身も蓋もない書き方をしている。彼女たちはサンチョに教育を与えることを拒んだ。理由は、無知でいさせれば従順でいると信じていたからだ、と。教育が人を反抗的にするという確信は、裏返せば、読み書きが実際に何をもたらすかを彼女たちがよく分かっていたということでもある。
ところが近所のブラックヒースに、第2代モンタギュー公爵ジョン・モンタギューが住んでいた。公爵はグリニッジのその家をたびたび訪れ、少年に本を読むよう勧め、自分の蔵書を貸した。公爵は1749年に死去する。同じ年、サンチョは三人姉妹の家を逃げ出し、モンタギュー家の門を叩いた。二十歳のことである。
付け加えておくと、この「逃げ出した」という行為が当時どう扱われたのかは、実のところ曖昧だった。イングランド本土における奴隷の地位に司法が踏み込むのは、1772年のサマセット判決——奴隷とされた人物を本人の意思に反して国外へ連れ出すことはできない、と示した有名な判決——を待たねばならない。それでも奴隷制そのものが違法とされたわけではない。サンチョが門を叩いたのは、その判決より二十年以上前である。
俳優になりそこねた話は、どこまで本当か
モンタギュー公爵夫人メアリーは彼を執事として雇った。夫人は1751年に亡くなり、サンチョには年30ポンドの終身年金と一年分の給与が遺された(当時の30ポンドは、現在の感覚でおよそ6,000ポンド前後にあたる)。その後は次代の公爵ジョージのもとで従僕を務める。
この時期の逸話として必ず語られるのが、俳優になろうとして失敗した話だ。『オセロ』と『オルーノコ』の主役を打診されたが、「矯正しようのない不明瞭な発語」のせいで実現しなかった——という。ただしこの話の出どころは、1782年に書簡集へ付されたジョーゼフ・ジェキルによる伝記スケッチ一点きりで、実際に舞台に立とうとした記録は残っていない。近年の研究者は、ジェキルの伝記には裏の取れない記述が混じっていることを繰り返し指摘している。
つまり「吃音で俳優を諦めたアフリカ人」という像自体が、白人の後援者が読者向けに整えた物語の可能性がある。ここは、ある程度割り引いて読むほうがいい。
確かなのは、1758年12月17日に西インド諸島出身の黒人女性アン・オズボーンと結婚し、七人の子をもうけたこと。そして四十代の半ば、肥満と痛風のせいで従僕の仕事を続けられなくなったことだ。立って歩けない使用人は雇われ続けられない。彼は職を失いかけていた。
彼の人生は、この身体によって三度動かされている。舞台に立てなかった(とされる)のも、従僕を続けられなくなったのも、そして最後に命を落としたのも、同じ痛風だった。ただし三度目の前に、この病はもうひとつだけ仕事をする。歩けない男に、店を持たせたのである。
そして200年かけて、著者の名前だけが残った
店を開くより前、1766年7月に、サンチョは当代随一の人気作家ローレンス・スターンに手紙を書いている。面識はない。要求はひとつだった。あなたのあの文章の力を、奴隷制のために三十分でいいから使ってくれ。
その主題を、あなたの筆で扱っていただけたなら、多くの者の軛(くびき)が(おそらくは)軽くなるでしょう——たとえたった一人であっても、ああ、慈悲深い心にとってそれがどれほどの馳走か!
スターンの返信は7月27日付。こちらも有名になった。「自然が、セント・ジェームズ界隈のもっとも美しい顔から、アフリカのもっとも煤けた肌へと降りてゆくのは、きわめて微細な色調と、感じ取れないほどの階調によってである」。そして——世界の半分がもう半分を獣のように扱い、そのうえで本当に獣にしてしまおうとしている、と書いた。
スターンは同じ手紙で、いま「身寄りのない哀れな黒人娘の悲しみについて、心を打つ話を書いていたところだ」と明かしている。それは1767年1月に出た『トリストラム・シャンディ』最終巻(第9巻)第6章に収まった。リスボンのソーセージ屋にいる黒人の少女をめぐって、伍長トリムが叔父トウビーに問う場面である。
「では旦那さま、黒い娘は白い娘より粗末に扱われてよいのですか」 「理由は言えぬ」と叔父トウビーは答えた。 「ただ」と伍長は首を振りながら言った、「あの娘のために立ち上がる者が誰もいないからでしょう」 「まさにそのことだ、トリム」と叔父トウビーは言った。「それこそが、あの娘を——そして同胞たちを——保護に値するものにしている。いま鞭を我々の手に握らせているのは戦の運にすぎん。次にそれがどこにあるかは、天のみぞ知る」
この往復書簡は、1775年に刊行されたスターン書簡集に収められ、そこから『ジェントルマンズ・マガジン』をはじめ各誌に転載されて、18世紀的な意味で「バズった」。アフリカ系の人間による、奴隷貿易への最初の公刊された異議申し立てとされる。19世紀には大西洋を越え、『フリーダムズ・ジャーナル』(1827年)、ギャリソンの『リベレイター』(1846年)、フレデリック・ダグラスの『ノース・スター』(1850年)にまで再録された。
ここに皮肉がある。研究者アレックス・ソロモンが指摘するとおり、繰り返し引用され、廃止論者としての名声を積み上げていったのはスターンの側の言葉だった。サンチョは次第に「スターンが手紙を書いた相手」に縮んでいく。手紙を書かせた人間が、手紙の宛名になってしまったのである。
資格は救貧税の領収であって、肌の色ではなかった
1774年、モンタギュー家の援助を受けて、サンチョはウェストミンスターのチャールズ街19番地に食料品店を開いた。国会議事堂から歩いて数分。扱ったのは茶、砂糖、ラム、石鹸、煙草、嗅ぎ煙草。妻のアンと二人で店を切り盛りした。
そして、この開業が彼の身分をひとつ動かす。
18世紀のウェストミンスター選挙区は「スコット・アンド・ロット」と呼ばれる選挙権を採っていた。教区の救貧税(rates)を納めている成年男性の世帯主であれば投票できる、というものだ。地主でなくてよい。財産の額も問われない。結果としてウェストミンスターの有権者はおよそ12,000人にのぼり、当時の英国で最大の都市選挙区になっていた。急進派の拠点になったのもそのためである。
つまりサンチョに一票を与えたのは、才能でも名声でもなく、教区の帳簿に彼の名で税が記録されていたことだった。制度は彼を人種で見なかったのではない。制度が見ていたのは支払いの記録だけで、たまたまそこに人種の欄がなかった。
そして冒頭に書いたとおり、当時は秘密投票ではない。投票は公開で行われ、誰が誰に入れたかは投票簿(ポールブック)として印刷・販売された。だから記録が残っている。
二百四十六年前に一人の食料品店主が誰を選んだか、われわれはいま、それを名指しできる。奇妙な話だと思う。現代の我々の投票先は誰にも知られない代わりに、二百年後の誰かに読まれることもない。
なお、この店が売っていたものについては触れておかねばならない。砂糖も煙草も、奴隷労働の産物である。両親を奴隷貿易に奪われた男が、その産物を売って生計を立て、税を払い、その税で選挙権を得た。研究者が指摘するとおり、サンチョ自身は残された書簡のなかで、この矛盾について一度も書いていない。「彼は砂糖の販売を拒んだ」と紹介する読み物もあるが、こちらは史料の裏付けが弱い。都合の良い話を足さずに、書かなかったという事実のまま置いておくのが誠実だろうと思う。
1750年の審問記録に紛れ込んだ、たった一言
長いあいだ、サンチョは「英国で投票した最初の黒人」とされてきた。ところが近年、ニューカッスル大学の18世紀選挙文化研究プロジェクト(ECPPEC)が、彼より一世代前の有権者を掘り当てた。
1749年のウェストミンスター補欠選挙。印刷された投票簿に「John Loudon」という綴りで載っている男がいる。セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ教区、ハンガーフォード・マーケットのワン・タン・アリーに住む居酒屋の主人。政府側の候補トレンサム卿に投票した。総投票数9,465票、勝敗を分けたのはわずか157票だった。
この選挙は接戦の末、敗れたサー・ジョージ・ヴァンデプット陣営が「スクルーティニー」——票の再審査を申し立てる。両陣営が相手方の有権者を一人ずつ吊るし上げる、地獄のような手続きである。ヴァンデプット側は「不正な有権者」の一覧を印刷し、そこにジョン・ロンドンの名が入った。理由は、家屋の税を払っていないというものだった。
1750年の審問の手書き記録に、その尋問の場面が残っている。教区の救貧監督官ライボットが、証言のついでのように、こう漏らす。
……あの男はブラッカムーア(黒人)ですよ。
この一言のためだけに、ジョン・ロンドンの人種は史料に残った。しかもライボットの主張(税を払っていない)のほうは崩れる。ロンドンは越してきたばかりで正式な台帳に転記されていなかっただけで、支払いは帳簿の表紙に記されていた。本人は出自を問われて「サフォークのベリー・セント・エドマンズ生まれだ」と答え、票はそのまま有効とされた。
ここが薄ら寒いところだ。ジョン・ロンドンが黒人だったと今日われわれが知っているのは、彼が票を疑われたからである。誰にも咎められずに投票した黒人の英国人が18世紀にほかにもいたとしても、印刷された投票簿には人種の欄がないのだから、記録には何も残らない。
つまり「最初の黒人有権者」というランキングは、そもそも「誰が難癖をつけられたか」のランキングでしかない。サンチョは知られているかぎり二人目だが、その「二人目」という数字自体が、記録の網目の粗さを測る目盛りにすぎないのである。
投票の三か月後に、彼は死んだ
1780年6月、ロンドンはゴードン暴動に飲み込まれる。カトリック救済法に反対する群衆が一週間にわたって街を焼き、数百人が死んだ。チャールズ街の店の前は、その通り道だった。サンチョは店の中から、手紙にこう書いている。
いまこの瞬間、少なくとも十万人の、みじめで襤褸(ぼろ)をまとった暴徒が——十二歳から六十歳まで、帽子に青い花形帽章をつけて——さらにその半数ほどの女子どもを連れて、通りを、橋を、公園を練り歩いている。あらゆる悪事にいつでも取りかかれる構えで。
書くのを中断せざるを得なかった。暴徒の叫び、刃の恐ろしい打ち合う音、そして群衆が最速で動くときのあの騒ぎに引かれて戸口へ出てみると、通りの誰もが店の戸を閉めるのに掛かりきりだった。
その年の9月、彼はウェストミンスター選挙区で二度目の投票をする。そして12月14日、痛風のために死んだ。五十一歳前後。17日にウェストミンスターのセント・マーガレット教会に葬られた。英国の新聞に死亡記事が載った、知られるかぎり最初のアフリカ系の人物である。『ガゼティア』紙は彼を「チャールズ街の食料品商にして茶商、その気前の良さと慈愛はその慎ましい身分をはるかに超えていた男」と評した。
二年後の1782年、フランシス・クルーが遺された手紙160通を編み、『故イグナチウス・サンチョ書簡集——あるアフリカ人の』として出版する。予約購読者は2,000人を超え、印税は500ポンド以上になって未亡人アンに渡った。当時としては破格の売れ方だった。
その書簡のなかに、1779年9月7日付の一節がある。英国の戦争熱について書いたあと、彼はこう投げ出している。
私にとってはどうでもいいことだ——なにしろ私はただの間借り人で、それすら怪しいのだから。
生まれた国を持たず、投票権はあり、税は納め、死亡記事は載り、しかし自分では「間借り人」だと書いた男。この一行のほうが、「初の黒人有権者」という肩書きよりもずっと正確に彼を言い当てている気がする。
最後に現在地を。チャールズ街19番地はもう無い。あのあたりは19世紀の再開発で飲み込まれ、いまはホワイトホールのキング・チャールズ・ストリート——外務省の巨大な古典様式の建物のすぐ脇にあたる。壁に記念プレートが一枚あるが、かなり高い位置にあって、見上げなければまず気づかない。1768年11月29日にバースでゲインズバラが1時間40分で仕上げた肖像画は、いまオタワのカナダ国立美術館にある。62曲を四つの曲集にまとめた作曲家としての仕事は、英国で最初に楽譜を出版した黒人音楽家の記録として残っている。
そして投票簿は、いまも読める。
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