2026年8月28日
イギリスの下院議員には、辞職する権利がない。1624年3月2日の決議が「一度正当に選ばれた者は投げ出すことができない」と定めて以来、その原則は一度も廃止されていない。ではボリス・ジョンソンはどうやって議席を捨てたのか。財務大臣が彼を、バッキンガムシャーの丘で山賊を取り締まるために13世紀に置かれた「チルターン三ハンドレッド州長兼執達官」に任命したからである。仕事はない。給料もない。土地の管理もしない。それでも、この官職に就いた瞬間、人は法的に議員でいられなくなる。
2023年6月9日、ボリス・ジョンソンは下院議員を「即刻」辞めると発表した。だが彼が法的に議員でなくなったのは、その3日後だった。
空白の3日間に何があったのか。財務省が手続きを踏んでいたのである。何の手続きかというと、彼を中世の役人に任命する手続きだ。
イギリスの国会議員は、辞めますと言って辞めることができない。辞表という書類が制度上どこにも存在しない。存在するのは、「あなたはもう議員の資格がありません」と国が宣告する仕組みだけである。だから議員は、自分から失格になりに行く。そのために、400年前に中身が空っぽになった官職が、いまだに二つだけ生かして飼われている。
1624年3月2日の決議
話は1624年3月2日にさかのぼる。この日、下院は一本の決議を可決した。文言はこうだ。
that a man, after he is duly chosen, cannot relinquish
「一度正当に選ばれた者は、これを投げ出すことができない」。三つの事案を検討した末に、選挙が正当に行われた以上、本人が嫌だという理由で議席を返すことは認めない、と確認したものだった。
ちなみにこの決議、資料によっては1623年3月2日と書かれている。誤記ではない。当時のイングランドは年始を3月25日としていたので、3月2日はまだ前年の扱いだった。現行の暦に直せば1624年。400年前の議会の話をするとき、日付そのものが一段ややこしいという、いかにもイギリスらしい入り口である。
なぜそんな決議が要ったのか。現代の感覚だと逆に見える。議席は特権であって、手放したがる人などいるのか、と。当時はまるで違った。議員は無給である。歳費が支給されるようになるのは1911年、つまりこの決議の287年後だ。ロンドンに出てくる旅費も滞在費も自腹で、その間、地元の商売は止まる。中世から近世にかけて、下院に出ることは名誉であると同時に、はっきりと金のかかる負担だった。放り出したがる議員のほうが問題だったのである。
もう一つ、より政治的な理由がある。17世紀は議会と王権がぶつかり合っていた時代だ。議員が簡単に議席を手放せる制度にしておくと、国王が圧力をかけて邪魔な議員を辞めさせる余地が生まれる。辞職を封じることは、王からの独立を守る防波堤でもあった。1680年には補完する決議も出て、王から有給の職を受けた議員は失格とされた。買収されて王の側につくことを防ぐためである。
この二つ目の決議が、のちに壮大な皮肉を生む。
腐敗防止の条文が、辞職の道具に転用される
議員は辞職できない。だが、王から俸給の出る官職に就いた者は議員でいられない。この二つを並べると、答えは一つしかない。辞めたければ、失格になればいい。
王の職を受けた者を失格とする原則は、1701年の王位継承法(Act of Settlement)と1707年の王位継承に関する法律(Succession to the Crown Act)で法として固まった。狙いは腐敗の防止である。国王が官職と俸給をばらまいて下院を骨抜きにすることを防ぐ、いわば議会の独立を守るための条文だった。
それが、議会を去るための踏み台になった。
最初に王領荘園の州長職(stewardship)を受けて議席を失った例は1740年に出る。そして1751年1月25日、ウェアラム選出の議員ジョン・ピットが「チルターン三ハンドレッドの州長兼執達官」に任命された。目的は失脚でも栄転でもない。別の選挙区、ドーチェスターから出直すためだった。以来、この形が定番になる。
構図を整理すると、こうなる。
腐敗を防ぐために作った規定を、腐敗のふりをすることで使う。しかも中身は空っぽ。イギリスの制度がよく「合理的でないが機能している」と評されるのは、だいたいこういう構造を指している。
ストーク、デスボロー、バーナム
チルターン・ハンドレッドとは何か。ハンドレッド(hundred)は、州(county)の下に置かれた中世イングランドの行政区画である。チルターンのそれは三つ——ストーク、デスボロー、バーナム。いずれもバッキンガムシャーにあり、ロンドンの北西に横たわるチルターン丘陵に一部がかかっている。
いまでこそ、ロンドンから電車で40分の、National Trust の看板が立つ散歩コースの土地だ。だが中世には森が深く、無法者の巣として知られていた。そこで王が直接、州長兼執達官を置いた。治安を維持し、法を執行するための、正真正銘の実職である。
仕事がなくなったのは、王権が近代化したからだ。エリザベス1世の時代までに、各州には治安判事(Justice of the Peace)、州長官(Sheriff)、州総督(Lord Lieutenant)が整備されていく。中世的な州長職は、機能を吸い上げられて空洞になった。17世紀には、権限も職務も伴わない称号だけが残る。
ただし、報酬の記載だけは残った。1911年版ブリタニカ百科事典によれば、19世紀まではこの職に名目上20シリングの俸給が付いていたという。任命状は保有者に「すべての賃金、手数料、手当、その他の特権および優位」を与える、と麗々しく謳っていた。中身のない職の、中身のない特権リストである。
この空文が問題になった時期もある。1861年、ウィリアム・グラッドストンが任命状の文言に手を入れ、「名誉」に触れる部分を削らせた。議席を捨てるための手続きで、王から名誉を賜ったことにされては具合が悪い、という話だったのだろう。制度の建前と実態のずれを、文面のほうを削って辻褄合わせしたわけである。
そして15人が、1日で辞めた
使えそうな「空の官職」は、チルターンだけではなかった。18世紀から19世紀にかけて、廃れた王の職が次々と発掘され、辞職装置として運用されては消えていった。
およそ20の官職が、この用途に動員されたとされる。整理が進んだ結果、いま残っているのは二つだけだ。チルターン三ハンドレッドと、1844年に初めて使われたノースステッド荘園(ヨークシャー、スカーバラ近郊のスカルビー)。1975年の下院失格法(House of Commons Disqualification Act 1975)第4条が、この二つの州長職を附則第1の対象に含めると明記し、慣行が法律に書き込まれた。
では、二つしかないのに三人以上が同時に辞めたいときはどうするのか。
答えは「同時に一人しか就けない」という性質にある。新しい任命は、前任者の任命を自動的に取り消す。つまり後任が現れた瞬間、前任者はただの人に戻る。二つの椅子を交互に使えば、理論上は何人でも順番に失格になれる。
これが実際に大規模に使われたのが、1985年12月17日だ。英愛協定に抗議して、アルスター統一党の議員15人が一斉に辞職した。手続き上は一日のうちに時間をずらして順番に処理され、チルターンとノースステッドを交互に付け外しすることで15人が処理された。2017年1月23日には、二人が同時に辞めるために二つの官職が一つずつ使われている。
中世の空職二つを回転させて、現代政党の集団抗議が捌かれる。制度の設計者が聞いたら卒倒しそうな運用だが、誰も困っていない。
受け取っていないと言い張った男の話
任命するのは国王ではなく、財務大臣(Chancellor of the Exchequer)である。議員が申請すると、財務大臣が任命状を発給する。それだけで失格が成立し、補欠選挙が動き出す。公式発表は驚くほど短い。2018年1月16日、フィリップ・ハモンド財務大臣の名で出た告示は、全文がこれだけだった。
The Chancellor of the Exchequer has this day appointed Barry McElduff to be Steward and Bailiff of the Three Hundreds of Chiltern.
注目すべきは、これが財務大臣の裁量だという点だ。理屈のうえでは、断ることができる。実際に断られた記録もある。最後の拒否は1842年、財務大臣ヘンリー・ゴウルバーンがチェルシー子爵の申請を却下した。選挙をめぐる不正の疑いが絡んでいたためとされる。以来180年以上、拒否された例はない。断らないことが慣例として固まっているので、事実上は自動的な手続きである。
しかし「自動」であることが、別種のややこしさを生んだ。
2011年1月20日、シン・フェイン党のジェリー・アダムズが西ベルファスト選出議員の辞任を表明した。だが彼は、王の官職を申請しなかった。アイルランド共和主義者として、英国王室の官職を受けることはできない、という立場である。
1月26日、財務省の報道官はこう述べた。長年の先例に従い、財務大臣はその書簡を「ノースステッド荘園の州長兼執達官への任命申請」とみなし、官職を与えた、と。申請していない人物が、申請したことにされて任命された。
アダムズは受諾を否定した。「私はアイルランド共和主義者だ。英国議会制度のああした時代錯誤で、まったく奇怪な部分と関わりを持ったことは一切ない」。そのうえで彼は、この展開を「奇妙な事態」と呼び、「あの荘園の住民も私と同じくらい当惑しているだろう」と付け加えている。デイヴィッド・キャメロン首相が下院で任命先を取り違えて答弁し、首相の個人秘書官が謝罪する一幕もあった。
興味深いのは、それでも辞職の効果は成立したことだ。本人が受け取っていないと言い、任命した側は与えたと言う。両者の言い分が真っ向から食い違ったまま、議席だけは確かに空いた。制度が本人の意思ではなく、書類の発給によって動いていることが、ここで露骨に見える。
250年、失敗し続けている改革
この仕組みを廃して、まっとうな辞職手続きを作ろうという話は、何度も出ている。1770年代にグレンヴィル、19世紀にグラッドストン、そして2011年にヒラリー・ベン。いずれも実らなかった。
理由は、たぶん一つではない。ただ確実に効いているのは、辞職を簡単にしたくないという感覚である。議員が自由意思で議席を返せる制度にすると、党の都合や政局のために議席が動かされやすくなる。補欠選挙を戦術に使う、抗議のために集団辞職する、圧力をかけて辞めさせる——そうした動きへの歯止めとして、「面倒な手続きを踏まないと辞められない」状態には一定の意味がある。1624年の決議が守ろうとしたものと、動機はさほど変わっていない。
そして、この官職はすっかり英語に定着してしまった。to apply for the Chiltern Hundreds といえば、辞職することそのものを指す慣用句である。1947年にはウィリアム・ダグラス=ホームが『The Chiltern Hundreds』という喜劇を書いて当たりを取った。制度の名前が普通名詞のように使われるようになると、廃止の動機はさらに薄れる。
21世紀に入ってからも、この中世の職は淡々と回り続けている。2023年6月、ボリス・ジョンソンがチルターン三ハンドレッドの州長になり、同年8月にナディーン・ドリースが後任に就いて、ジョンソンの任命は自動的に消えた。バッキンガムシャーの丘には、いまも取り締まるべき山賊はいない。
イギリスの制度を眺めていると、こういう場面によく出くわす。古い規則を廃止する代わりに、その規則を回避するための別の古い規則を残しておく。二つ重ねると結果的に用が足りるので、どちらも触らない。合理的ではない。だが400年動いていて、来年も動く見込みがある。効率の話をしているのではなく、壊れなかったものを壊さない、という話なのだと思う。
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