2026年8月16日

    ロンドンの街歴史・事件王室・制度

    「死後20年」を待てずに落とされた人たち——ロンドンの青い円盤が、4件に3件を門前払いにする理由

    ロンドンの壁にある青い丸「ブルー・プラーク」は、実は狭き門です。年に設置されるのは最大12枚、申請の約4分の3は却下される。オリヴァー・リードも、『時計じかけのオレンジ』のアンソニー・バージェスも落ちました。160年前、下院議員のひとことから始まったこの制度が、なぜここまで冷徹になったのかを追います。

    「死後20年」を待てずに落とされた人たち——ロンドンの青い円盤が、4件に3件を門前払いにする理由

    ロンドンを歩いていると、レンガの壁に直径50センチほどの青い円盤が貼りついているのに気づく。「ここに誰それが住んでいた」。観光名所というほどでもないので、たいていの人は写真を1枚撮って通り過ぎる。

    でも、あの円盤は誰でももらえるわけではない。むしろ、もらえない人のほうが圧倒的に多い。落選者の名簿を眺めていると、これは記念というより審査なのだと気づく。しかも、かなり容赦のない審査だ。

    1863年、下院で出た「家に印をつけては」という思いつき

    政府が金を出さず、民間が拾った

    話は1863年に始まる。下院議員のウィリアム・ユーアートが、偉人の住んだ家に記念の銘板をつけてはどうかと提案した。ユーアートという人は公共図書館法の推進者としても知られる、「文化を万人に開く」ことに執着した政治家だった。

    ところが行政は資金を出さなかった。宙に浮いた構想を拾ったのが**Society of Arts(のちの Royal Society of Arts、RSA)**で、1866年に正式な制度として発足させる。

    記念すべき第1号は詩人バイロン。キャヴェンディッシュ・スクエア近くのホールズ・ストリート24番地、その生家に取り付けられた。

    そして、ここがこの物語の性格をよく表しているのだが——そのバイロンの家は1889年に取り壊されている。第1号のプラークは、建物ごと消えた。記念碑を貼り付ける先が失われるという事態を、制度は発足20年余りで経験してしまったわけだ。

    RSAが手がけたのは35枚ほど。1901年、RSAはロンドン州議会(London County Council、LCC)に事業を引き継がせることに成功する。以後、行政の手で運営される制度になった。

    青くなかった青い銘板——チョコレート色だった35年間

    「4ギニーの学生」がデザインを決めた

    「ブルー・プラーク」と呼ぶわりに、初期のものはあまり青くない。

    ごく最初期こそ青だったが、当時この色は製造が難しく高価だった。そのためSocietyは以後の35年間、主にチョコレート・ブラウンを使っている。今も街角にたまに残っている茶色い銘板は、失敗作ではなく初期の正規品である。

    LCCは引き継いだあと、色や装飾をいろいろ試した。月桂樹の輪郭やリボンで縁取られた、かなり装飾的な意匠の時期もある。青い陶製プラークが標準になったのは1921年ごろ。

    決定打は1938年。今日おなじみの、装飾を削ぎ落とした簡潔なデザインが生まれる。月桂冠とリボンの縁飾りを廃し、レイアウトを単純化して、文字を大胆にゆったり配置した——これがそのまま現在まで使われている。

    そしてこのデザインを手がけたのは、Central School of Arts and Craftsの名前も記録されていない一学生だった。報酬は4ギニー。ロンドンの街の視覚的な定番を作った人物が、匿名のまま消えている。90年近く経った今も、その学生の線がそのまま壁に貼られ続けている。

    「シティには青い丸がない」の理由は、1879年の縄張り協定

    四角い銘板が始まる境界線

    ロンドンの金融街、シティ・オブ・ロンドン(通称スクエア・マイル)を歩いても、あの青い円盤はまず見つからない。老舗も歴史的建造物も密集しているのに、である。

    理由は情緒でも建築規制でもなく、1879年に結ばれた取り決めにある。当時この制度を運営していたRSAと、シティ・オブ・ロンドン・コーポレーションが、「スクエア・マイル内の銘板はシティ側が設置する」と合意した。この線引きが、以来ずっと生きている

    したがってシティにあるのは別制度の銘板で、形も違う。イングリッシュ・ヘリテッジの円形に対し、シティのものは長方形。数は140枚超(2025年時点のシティ側公表資料で138枚)。

    知っていると散歩の解像度が変わる。銘板の形が丸から四角に変わったら、そこが中世以来の自治体の境界を越えた地点だということだ。行政区画の境目が、壁の装飾の形として街に残っている——ロンドンにはこの手の「制度の化石」がやたらと多い。

    年12枚、そして4件に3件が落ちる

    落選者名簿がなかなか強烈

    1986年からはイングリッシュ・ヘリテッジが運営している。現在の主なルールはこうだ。

    • 対象者は没後20年以上が経過していること
    • 現存する建物と、その人物の強い結びつきがあること(住んだ、働いた等)
    • 専門家からなるブルー・プラーク・パネルが年3回集まって選考する
    • 設置は年間最大12枚

    現存する建物、という条件が地味に厳しい。ロンドンは大空襲と再開発で膨大な数の家を失っており、偉人のほうが建物より長生きしてしまうケースがいくらでもある。第1号のバイロンの生家が取り壊された一件は、その後160年の予告編だった。

    そして選考。報道によれば、申請のおよそ4分の3が却下されている。落とされた顔ぶれがなかなかすごい。

    • オリヴァー・リード(俳優) — 俳優としての実績が「十分に強くない」と判断された
    • アンソニー・バージェス(『時計じかけのオレンジ』著者) — 歴史的重要性がまだ明確でない、との評価
    • ライオネル・ローグ — 映画『英国王のスピーチ』で知られる、ジョージ6世の吃音を治療した言語聴覚士
    • ロナルド・コールマン(アカデミー賞俳優)、エヴァ・ゴア=ブース(女性参政権運動家)、アルバート・トロット(クリケット選手)

    『時計じかけのオレンジ』の作者に対して「重要性がまだはっきりしない」と言い切るあたり、この委員会の胆力は相当なものだと思う。

    ブルック・ストリート、隣り合う二枚

    ヘンデルとジミ・ヘンドリックスが壁一枚の隣人になった

    厳しい制度の話ばかりしたので、最後にロンドンで最も愛されている二枚を挙げたい。メイフェアのブルック・ストリートにある。

    25番地にはゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル。『メサイア』を書いた作曲家が、18世紀にここに住んだ。

    そして23番地、つまり壁一枚隣に——ジミ・ヘンドリックス

    1968年、ヘンドリックスは恋人キャシー・エッチンガムがこの建物の最上部2フロアに借りた部屋に転がり込んだ。自分の趣味で内装を整え、数か月暮らし、1969年3月に渡米ツアーへ発っている。1997年9月14日、ここにプラークが設置された。

    約230年をまたいで、二人の音楽家が隣同士の住所に並んだことになる。

    さらに芸が細かいのが2001年の措置だ。25・26番地がヘンデル博物館として開館した年、イングリッシュ・ヘリテッジはヘンデルのプラークを作り直した。ミドルネームの英語式表記を正しい綴りに直し、さらに位置を下げて、隣のヘンドリックスのプラークと高さを水平に揃えた

    没後20年と現存建物を厳格に要求し、申請の4分の3を突き返す組織が、バロックの巨匠とサイケデリック・ロックのギタリストの銘板の高さを合わせるためにわざわざ壁から外して付け直す。この制度のいちばん良いところが出ている気がする。厳格さと悪ノリは、案外きれいに同居する。

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