nick
中古品の「in good nick」を「傷あり」と読むと、掘り出し物を全部見逃す
辞書を引くと nick は「刻み目・切り傷」。なのにロンドンでは自転車が nick され、犯人が nick に連れて行かれ、中古の家具は in good nick で売られている。一語で盗む・警察署・良好な状態を全部やる過労働単語。真面目に辞書を引いた人ほど、真逆の意味に読む。
ロンドンに来て最初の週、ベッドサイドテーブルを探して Gumtree を眺めていた。出品文にこうあった。「Solid oak, in good nick, £20.」
solid oak は分かる。£20 も分かる。in good nick が分からない。辞書を引いたら nick は「刻み目、切り傷」と出てきた。good nick。いい傷? 傷があることを正直に申告してくる、イギリス人らしい慎ましい出品文だな、と解釈した。そしてページを閉じた。
翌週その話を職場でしたら、同僚が真顔で「それ、状態めちゃくちゃいいって意味だけど」と言った。オーク材のテーブルが20ポンド。私は自分の辞書を引く能力ひとつでそれを逃していた。
「in good nick」は傷の話じゃない。傷がない話だ
辞書を信じた人から順に間違える
結論から言うと in good nick は「状態がいい」。傷の話ではなく、傷がない話。真逆である。
これがロンドンの中古取引には呆れるほど出てくる。
- 家具の出品文:「Barely used, in good nick.」
- 中古車の広告:「Full service history, engine in great nick.」
- 自転車:「Frame's in decent nick, tyres need replacing.」
要するにメルカリの「美品」と同じ役目をしている。違うのは、「美品」は日本人なら誰でも読めるのに、nick のほうは英語を真面目に勉強した人ほど誤読するところ。辞書に「刻み目・切り傷」と書いてあるんだから、真面目な学習者ほど地雷を踏む。何も知らずに雰囲気で読み飛ばした人のほうが正解にたどり着くという、勉強の意義を根本から疑わせてくる単語だと思う。
逆は in bad nick。人にも使えて「He's in good nick for 70」なら「70にしては元気」。ジムで「You're looking in good nick」と言われても身構えなくていい。ただの褒め言葉。
語源ははっきりしない。有力なのは in the nick of time(間一髪)の nick、つまり「ちょうどいい頃合い」から来たという説。競走馬の交配相性を指す nicks 由来説もあるが、こっちは正直ちょっと怪しい。OED 自体が「起源不明」と匙を投げている。
同じ nick で盗まれて、同じ nick に連れて行かれる
単語界のなんでも屋
面倒なのはここから。同じ nick が、盗むのも逮捕するのも担当している。
- They nicked my bike — 自転車を盗まれた
- You're nicked — お前を逮捕する
- He spent the night in the nick — 留置場で一晩過ごした
つまり「自転車を nick され、犯人が nick に連れて行かれ、戻ってきた自転車は in good nick だった」という文が普通に成立する。日本語なら三回訳し分けが要る場面を、イギリス人は何の疑問も持たずに喋っている。どの部署にも一人はいる「あの人に振っとけば全部やってくれる人」が、単語の世界にもいるということだと思う。しかも本人は忙しいと思っていない。
順番としてはこうなる。まず15世紀に「刻み目をつける」があった。シェイクスピアも『間違いの喜劇』で使っている。そこから16世紀に「騙す・出し抜く」へ転び、19世紀初頭に「盗む」へ。並行して17〜18世紀に「不意を突いて捕まえる」の意味が育ち、これが逮捕になった。警察署・留置場を指す名詞のほうは記録上オーストラリア発らしく、1882年の『Sydney Slang Dictionary』に「Nick (The), gaol」と載っている。
これを完全に国民語にしたのが、70年代の刑事ドラマ『The Sweeney』の決め台詞「Get yer trousers on, you're nicked」。脚本チームがスコットランドヤード近くのパブで本物の刑事の喋り方を取材して作った台詞で、しかも本編で使われたのはパイロット回の一度きりらしい。一度しか言っていない台詞が国中に居座り続けている。イギリス英語は上品だという評判、この単語ひとつでだいぶ揺らぐ。