60周年のカーニバルを前に、ノッティングヒルの住民と店が窓に合板を打ちつけています。「そんなに嫌なら他所に住め」という声も出ました。ところが英国の法律は150年前から、その言い分を抗弁として認めていません。板が張られる理由は、被害の大きさとは別のところにあります。
開催直前に出た記事です。Notting Hill residents board up their properties ahead of millions of revellers hitting area for carnival
2026年8月時点の状況です。
「嫌なら他所に住め」。この台詞は英国の法廷にも何度も出てきて、そのたびに退けられてきました。
1879年、ウィグモア・ストリートの菓子屋が20年以上、乳鉢と乳棒で材料を砕いていました。隣のウィンポール・ストリートに住む医者が、庭の突き当たりに診察室を建てます。菓子屋の調理場とは壁一枚。医者は、うるさくて聴診ができないと訴えました。菓子屋の言い分は「こっちが先にやっていた」。
裁判所は医者を勝たせます。後から来たことは抗弁にならない——Sturges v Bridgman(1879年)で固まったこの原則は、以来150年ほとんど動いていません。1886年にはハルズベリー卿が「人が迷惑のほうへ行ったのか、迷惑が人のほうへ来たのかで、権利は変わらない」と書いています。
1977年には村のクリケット場が同じ目に遭いました。ダラム州リンツ村、70年間クリケットをやってきたグラウンドの隣に住宅地が造成され、越してきた夫婦の庭にボールが飛び込む。デニング卿は「夏の村のクリケットは万人の喜びである」で始まる反対意見を書いてクラブを守ろうとしましたが、少数派でした。控訴院はニューサンス(生活妨害)の成立を認めています。
つまり英国法の建前では、板を張っている住民のほうが強い。60年続けてきたから許される、という理屈は通らないのです。「他所に住め」と言った男性のほうが、法律から外れています。
ただしこの原則には、もう一本の柱が組み合わさっています。何が迷惑にあたるかは「場所の性格」で決まる、という考え方で、その根拠が1879年の判決の一節です——ベルグレイヴ・スクエアで迷惑なことが、バーモンジーで迷惑とは限らない。2014年の最高裁は、先にあった合法な活動を「その界隈の性格の一部」として扱ってよい場合がある、と整理し直しました。
ここに厄介な事情があります。この60年で移動したのは、祭りではなく街のほうです。1966年のノッティングヒルはバーモンジー側にありました。いまはベルグレイヴ・スクエア側です。カーニバルは一歩も動いていないのに、足元の基準がまたいでしまった。
そしてリンツ村の結末には続きがあります。控訴院はニューサンスを認めながら、差止めは出しませんでした。賠償金で片づけたのです。クリケットは止まらなかった。正しいと認められることと、音が止まることは別だったわけです。
ここからは私見です。まず数字を置きます。
ケンジントン&チェルシー区は、英国で最も騒音苦情の多い自治体です。法科大学 The University of Law が全国64自治体に情報公開請求して集計した調査(2025年10月公表)によると、2025年6月までの1年間で4,511件。人口1,000人あたり28.7件、1日あたり12.3件で、全国トップでした。
その区が、200万人の祭りについて受け取った苦情が55件です。3日で割れば1日あたり18件。普段が12.3件ですから、増分は1日6件。年間4,511件のうち、カーニバル分は1.2%にしかなりません。しかも55件のうち29件は、ダルガーノ区とゴルボーン区——会場の外から来ています(記事は55件の集計期間を明示していませんが、区ごとの内訳が示されている以上、カーニバル絡みの数と読むのが自然です)。
この街は、カーニバルがない日のほうがよほど怒っている。
そうだとすると、合板は被害の量に対応していません。対応しているのは分散のほうです。年に一度、自分の庭に誰が入ってくるか分からない三日間がある。苦情が全体で55件しかなくても、自分の家がその一件になる確率はゼロにならない。テスコが板を張るのは統計の話ではなく保険料の話で、住民が板を張るのはその家庭版です。ここまでは合理的な行動だと思います。
引っかかるのはその先です。板張りは、すでに年中行事になっている。記事は街並みが「合板のパレード」に変わると書いていて、これは言い得ています。60年目のカーニバルには、パレードと同じくらい定着した対抗儀礼がある。毎年同じ時期に、同じ道具で、同じ準備をする。伝統の条件を全部満たしています。
そして儀礼には、たいてい実務的な効き目が残っていません。板を張っても苦情は減らない(そもそも少ない)。訴えてもリンツ村と同じで音は止まらない。区に出しても、2025年は機材が一台も押収されていない。どの手段も、効いたという手応えを返してきません。手応えの返ってこない仕組みからは、人は降ります。降りた先が合板です。
昨日、この祭りには金を集める主体がはっきりしないという話を書きました。同じ穴は、住民の側から見ると別の顔をしています。苦情を持っていく先が、区なのか、カーニバルの運営会社なのか、30台あるサウンドシステムのどれかなのか、判然としない。区への法定ニューサンス申立てが正規のルートで、55件はそれです。個人で訴える道も残っていますが、200万人は被告席に座れません。原告に有利な150年の判例があっても、名前のある相手がいなければ使えない。
だからこそ、今年から騒音の上限を決めて区が測る、という変更は地味ですが正しい方向だと思います。測れば数字が出る。数字が出れば、来年は「うるさかった」ではなく「何デシベルだった」で話ができます。60年かかって、この論争にようやく共通の物差しが入るわけです。
板は週明けにはがされます。物差しのほうは、置いておけます。
英国のいまを、もう一本。
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