今週末(2026年8月29〜31日)、ノッティングヒル・カーニバルが60周年を迎えます。直前の3月、市長は466万ポンドの小切手を書きました。前年は開催中止寸前を100万ポンドの緊急救済で凌いでいます。問題は金額ではなく、200万人が集まる祭りに「主催者」と呼べる主体がはっきり存在しないことのほうだ、という話をします。
The Standard、2026年8月26日
開催3日前に出た記事です。What is the future for Notting Hill Carnival? Inside the battle for survival for Europe's biggest street party
2026年8月時点で分かっている数字を並べます。
数字だけ見れば、どちらの言い分も成り立ちます。だから議論が終わらないのです。
改札のない祭りは、どうやって自分の安全を買うのか
記事のなかで一つ、目が止まる比較があります。
ロンドン警視庁がカーニバルの3日間に使った額は、2025年で1,570万ポンド。同じ警視庁が、2024-25シーズンのロンドン開催プレミアリーグ133試合すべてに使った額は、1,000万ポンド強です。
3日間のほうが、シーズン丸ごとより5割以上高い。
これを「カーニバルは危険だから」と読むのは早すぎます。差を生んでいるのは治安ではなく、建物があるかどうかです。サッカーの試合には門があり、チケットがあり、座席番号があります。警備員はクラブが雇い、費用はクラブが払う。警察は外側だけを見ていればいい。
カーニバルには門がありません。ラドブローク・グローヴ一帯の公道そのものが会場で、入場券も、入場者数の上限も、退場管理もない。だから安全対策のほぼ全額が公費になります。ロンドンの大晦日花火は10年前にチケット制を入れてなお2024年の予算が約400万ポンド、Pride in London への市庁舎の支援は5年契約で62万5,000ポンド。この並びのなかで、200万人を無料で受け入れる祭りだけが桁違いに高いのは、当たり前の話です。
そして2025年4月22日、ロンドン議会の警察・犯罪委員会は報告書でこう指摘しました——主催者は群衆の安全に必要な水準の警備員を配置していない。2024年には警官約7,000人、延べ約14,000シフトを投入してなお、委員会は「大量死傷事故」の可能性に言及しています。
もっともな指摘です。ただし、主催者に金がなければ警備員は雇えません。金がないのは改札がないからで、改札がないのは路上だからで、路上でやるのがこの祭りの本体です。きれいに循環していて、どこにも出口がない。
出口がないまま、毎年3月ごろに市長が小切手を書く。60年続いた伝統が、実質1年契約で生きているわけです。
ここからは私見です
日本の話をします。設計思想が正反対だからです。
2001年7月21日、兵庫県明石市の花火大会で、駅と会場を結ぶ歩道橋に群衆が滞留しました。密度は1平方メートルあたり13〜15人。群衆雪崩が起き、11人が死亡(うち9人は子ども)、247人が負傷しています。その後、市の職員や警備会社の関係者ら5人が業務上過失致死傷で有罪になりました。
日本の雑踏警備がこの事故で変わったのは、補償の話が片づいたからではありません。「この人混みの安全には、名前と顔のある責任者がいる」と刑事で確定したからです。誰が主催者で、誰が警備計画に署名し、誰が失敗したときに法廷に立つのか。それが決まった。
ロンドン議会の報告書は「大量死傷事故が起きる前に」と書いています。日本は起きたあとに決めました。順番としては、ロンドンのほうがはるかに恵まれています。にもかかわらず、いま交わされているのは「金を出すか、出さないか」の二択です。
もう一つ、日本の例を。徳島市の阿波踊りは、運営していた徳島市観光協会が累積赤字4億2,400万円を抱え、4億3,600万円を金融機関から借り入れた末に、2018年3月29日に破産手続開始が決定しました。負債総額は約3億8,000万円。
それで阿波踊りは終わったか。終わっていません。実行委員会が組み直され、2019年からは市の委託を受けた事業体が運営しています。約400年の歴史で初めて、民間が運営する祭りになりました。
潰れたのは主催団体であって、祭りではない。 ここが肝心なところだと思います。伝統を守るというのは、伝統を担いきれなくなった体制まで一緒に守ることではありません。
ホール議員の「なぜ我々が払わねばならないのか」は、問いとしては正しいと思います。ただし正しい答えは「払うな」ではなく、「誰が払うのか決めろ」です。3億9,600万ポンドの経済効果、観光客16万人、雇用3,000人分——受け取っているのはホテルであり、飲食店であり、交通事業者です。彼らは一銭も出していません。門のない祭りから金を取る仕組みがないというのは、技術的な難題であって、原理的な不可能ではないはずです。
カーニバルは、1958年のノッティングヒル人種暴動のあと、クラウディア・ジョーンズが「黒人の口から暴動の味を洗い流す」ために1959年に始めた屋内の集まりを起点にしています。1966年、レイニー・ラスレットらが子どものための街頭パーティを開き、それが行列になった。60年かけて200万人になりました。これは失敗ではなく、成功です。
ただし、成功したイベントを、成功する前の体制のまま運転し続けることはできません。守りたいのであれば——そして守るべきだと思っています——議論すべきは金額ではなく主体のほうです。誰が計画に署名し、誰が受益者から金を集め、誰が責任を負うのか。それが決まっていない祭りは、いくら金があっても危ない。逆にそこさえ決まれば、200万人は十分に回せる規模です。
日本はその答えを、11人の葬儀のあとに書きました。ロンドンにはまだ、書く前に決める余地が残っています。60周年は、その期限としては悪くない区切りだと思うのですが。
今週末、また200万人が来ます。
英国のいまを、もう一本。
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