2026年8月25日
1780年の暴動でイングランド銀行が襲われた。その翌日から、近衛兵の分遣隊が毎晩バラックから銀行まで行進する任務が始まり、1973年7月31日の夜まで193年間つづいた。途中から兵士たちは地下鉄で通い、指揮官の中尉は近所のパブから夕食を運ばせ、ワインを飲みながら客を二人まで招いてよかった。そして議会でこの制度の廃止を問われた大臣は、廃止しない理由として「1780年以来、一度も襲われていない」と答えた。

ロンドンのバンク駅を出ると、イングランド銀行の窓のない外壁が目の前に立ちはだかる。地上階に窓がひとつも無いのは、この建物が金庫だからだ。
そして1973年の夏まで、この壁の内側には毎晩、実弾を持った近衛兵が泊まり込んでいた。儀仗兵ではない。バッキンガム宮殿の衛兵交代のような観光客向けの見世物でもなく、193年間、一日も欠かさず、本当に銀行を守るために配置され続けた部隊である。
始まりは、たった一晩の暴動だった。
1780年6月7日、「暗黒の水曜日」
1780年6月、ロンドンはゴードン暴動に飲み込まれていた。カトリック教徒への制限をゆるめたパピスト法(1778年)の撤回を求める運動が暴走し、6月2日から9日にかけて市内が燃えた。ニューゲート監獄、フリート監獄、キングズ・ベンチ監獄が襲われ、囚人が解き放たれた。死者は300人から700人と見積もられている。ロンドン史上もっとも破壊的な暴動だった。
そして6月7日、いわゆる「暗黒の水曜日」に、群衆はスレッドニードル街のイングランド銀行へ向かった。
銀行側も無防備ではなかった。中庭と屋根には武装した行員と義勇兵が配置されていた。そして籠城の準備として、古いピューター(錫合金)製のインク壺が溶かされ、銃弾に鋳直された。事務用品が弾薬になった、というのはこの夜を象徴する細部だと思う。銀行という場所が、その日ばかりは要塞として振る舞った。
襲撃は二度あった。一度目は兵士の一斉射撃で食い止められ、二度目はやや勢いを欠いた。銀行は守り抜かれた。
問題は、誰が守ったかである。
ジョン・ウィルクスという皮肉
この夜、銀行の外で部隊を指揮していたのはジョン・ウィルクスだった。
この名前にピンとこない人のために説明すると、ウィルクスは18世紀イギリスでもっとも有名な急進派である。国王を風刺して起訴され、議会から追放され、そのたびに選挙で選び直され、「ウィルクスと自由(Wilkes and Liberty)」を合言葉に群衆が街を練り歩いた——そういう人物だ。かつては彼こそが、暴動を起こす側の象徴だった。
その彼が1780年にはロンドン市参事会員(alderman)として体制の側におり、銀行を守る大隊を率い、群衆への発砲を命じた。しかも自ら飛び出して首謀者数人を素手で引きずり込んだと伝えられている。
押し寄せていたのは、10年前なら彼を担いで行進していたであろう人々だった。この一件でウィルクスの急進派としての人気は決定的に落ち、以後の彼は保守的な立場へ傾いていく。
革命家が銀行の側に立った日として、これはなかなか出来すぎている。そして皮肉なことに、この夜の記憶から生まれた制度のほうが、ウィルクス自身の名声よりずっと長く生き延びることになる。
バンク・ピケット(Bank Picquet)の成立
暴動のあと、当局は結論を出した。イングランド銀行には常設の夜間警備が要る。
こうして1780年から始まったのが「バンク・ピケット」(Bank Picquet、発音はピケット)、通称バンク・ガードである。費用は銀行が負担し、兵は近衛旅団(Brigade of Guards)が出した。つまり銀行が陸軍から警備員を買っていたわけで、ロンドンらしい取り決めだと思う。
分遣隊は当初ロンドン塔から、のちにウェリントン・バラックスやチェルシー・バラックスから出発した。正装に銃剣を装着して行進し、夕方6時半ごろに到着する。ここに面白い特権があって、この部隊は儀式以外の場面でシティ内を銃剣付きで行進することを許された唯一の兵だった。
編成は時代によって変わる。当初は30人規模。後年は将校1名、軍曹1名、伍長1名、上等兵1名、近衛兵8名、鼓手1名という構成になった。
そして、いかにもイギリスなのが天候による運用である。雨がひどい日、彼らは行進をやめてロンドン地下鉄の普通の電車で銀行へ向かった。軍服にライフルで、一般客に混じって座っている。ロンドンの通勤風景の一部として、実弾を持った近衛兵が乗っていた時代が本当にあったのだ。
1911年の記録に残る、あまりに優雅な夜勤
この任務、待遇の記録が残っていて、読むと軍務というより会員制クラブに近い。
1911年の記述によれば、指揮官の中尉には「居心地のよい小部屋」が与えられ、夕食は近所のタヴァンから運び込まれた。さらに彼は客を二人まで招いてよかった。唯一の条件は「深夜までに帰らせること」だけである。
酒の配分もはっきり決まっていた。
客のほうが本人より多く飲める計算になっているのが素晴らしい。
手当も出た。到着するたびに、兵卒と鼓手には1シリング、伍長には1シリング6ペンス、軍曹には2シリング6ペンス。冬には毛布と、読書用の本が支給された。
国家の金庫を守る任務でありながら、実態は「ワインを飲みながら本を読んで朝を待つ」に限りなく近い。もっとも、193年のうち大半の夜は本当に何も起きなかったのだから、これはこれで正しい姿だったのかもしれない。ちなみに、この待遇の良さは後年、議会で叩かれる材料になる。
1959年と1963年、二度の廃止論
20世紀に入ると、当然こういう声が上がる。訓練された近衛兵を、毎晩銀行に泊まらせておく意味はあるのか。
1959年12月9日の庶民院。ランベス・ブリクストン選出のマーカス・リプトン議員が、ピケット廃止の検討状況を質した。リプトンは具体的な数字を突きつけている。銀行が支払っているのは17人が13時間の夜勤をして54シリング。安すぎる、というより、そもそも人員の使い道として不適切だという追及だった。
これに答えた陸軍大臣クリストファー・スームズの言葉が、この話のすべてを要約している。
「最近、銀行を狙った強盗は何件も起きています。しかしイングランド銀行が襲われたことは、1780年以来一度もありません。」
見事な答弁だと思う。同時に、論理としては相当に危うい。193年間何も起きていないことを、193年間続けた理由にしている。守っているから起きないのか、そもそも起きないのか、この答弁からは永遠に判別できない。
1963年4月24日、追及は再燃する。ジョン・ラングフォード=ホルト議員が中止を求め、リプトンが再び噛みついた。今度の数字はこうだ——年間11万4000人・時間が、無意味な儀式のために浪費されている。ラングフォード=ホルトにいたっては、この費用を当時資金不足だった腎臓病研究と並べて比較してみせた。
答弁に立ったのは陸軍大臣ジョン・プロヒューモ。彼は「イングランド銀行の警備上の要求は、軍による警備によって最もよく満たされる」と述べ、この警備はすでに「服装・展開の両面において戦術的なものになっている」と説明した。総裁が陸軍予算へ支払いを行うことにも同意した、と。
(余談だが、このプロヒューモは同じ1963年の6月、いわゆるプロヒューモ事件で辞任する。彼が「儀式ではなく戦術です」と弁明していたのは、政治生命が尽きるわずか数週間前のことだった。)
誰にも見送られずに終わった193年
プロヒューモの答弁どおり、1963年にバンク・ピケットは姿を変えた。
行進はやめ、車輌で移動するようになった。正装は捨て、通常勤務服(service dress)になった。武装も自動火器に切り替わった。見世物としての要素を全部そぎ落として、純粋な警備部隊になったのである。
皮肉なのは、そうやって「儀式ではない」と主張した結果、この部隊を守っていた最後の理由まで消えてしまったことだ。赤い制服で銃剣を光らせて行進していたころなら、伝統として残す理由がまだあった。地味な作業服で車に乗って来る武装集団になった瞬間、それは「警官やアラームで代替できるもの」でしかなくなる。
実際そうなった。警備技術が進み、武装警察が整備されると、軍を張り付ける理由は無くなった。兵力削減の圧力もあった。
1973年7月31日の夜、最後のバンク・ピケットが勤務についた。翌朝、彼らが引き揚げたあと、二度と次の分遣隊は来なかった。193年である。
終わり方には、ロンドンらしい素っ気なさがある。この街は儀式を残すのがやたら上手い——白鳥の数を数え、鍵を持って回り、ナイフと馬蹄で家賃を払う——が、その一方で、実務として始まったものが実務として不要になれば、記念式典もなくあっさり畳んでしまう。バンク・ピケットは「伝統」に分類されなかった。最後まで業務だったのだ。
いま、バンク駅の交差点に立っても、それを示す銘板ひとつ無い。窓のない壁があるだけである。ただ、その壁の中で193年ぶんの夜が明けたこと、そして最後の朝が1973年8月1日だったことは、覚えておいて損はないと思う。
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